蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡(秋葉原散歩④)
本日は、大晦日です。
今年1年間、このブログをお読みいただきありがとうございました。
いつも熱心にお読みいただきありがとうございます。おかげさまでよい年を迎えられそうです。読者の皆様もよい年をお迎えください。
今日は、蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡をご案内して、今年の書き納めとさせていただきます。
現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北スポーツプラザのある一帯に、江戸時代、肥前国平戸藩主松浦(まつら)家の上屋敷があり、そこには蓬莱園という名園がありました。
柳北公園の北西側の忍岡高等学校との境にある石碑「蓬莱園跡」と台東区教育委員会の説明板がそれを示しています。(下写真)

平戸藩主松浦(まつら)家は、平安時代の武将渡辺綱までさかのぶる、大変古い出自を誇る家柄です。
初代藩主は松浦鎮信で、3代藩主松浦隆信の代の寛永9年(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、小堀遠州が庭園を築造しました。
寛永18 年(1641)、もともと上屋敷だった元誓願寺前屋敷が焼失したことから、その翌年(1642)、鳥越の地を上屋敷としたと書いてあるものもあります。
上屋敷の面積は約1万5千坪ありました。上屋敷内の庭園は約2500 坪でその大部分が池泉だったそうです。この庭園が、江戸時代後期に蓬莱園となづけられました。
松浦家の歴代藩主の中で、とりわけ有名な殿様が9代目藩主の松浦静山です。
松浦静山は、随筆集「甲子夜話」を書いたことで大変有名です。
松浦静山は、安永4年(1775)に藩主となりました。そして、文化3年に起きた江戸の三大大火の一つといわれる文化3 年(1806 )3 月におきた大火(俗に丙寅の火事・車町火事・牛町火事といわれる)で、松浦家の上屋敷が焼け、庭園も壊滅的な被害を受けたと推測されています。
当時藩主であった松浦静山は本所屋敷に退避し、その年11月にそのまま隠居したため、鳥越屋敷は新藩主松浦熈が居住する屋敷となりました。そして、10代藩主松浦熈の時代に、庭園は「蓬莱園」と命名されました。
明治初期の参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」の地図によると平戸藩上屋敷は「松浦邸」とされていることから、明治以降は、松浦家の邸宅となっていたと思われます。

柳北公園の北西の歩道脇の台東区教育委員会の説明板(上写真)によると、蓬莱園は明治40年刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東京名園中現存するものの一也」と記されているそうです。
また『浅草区誌』によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2600坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていたそうです。
しかし、蓬莱園は、関東大震災のために荒廃し、昭和12 年、東京都立忍岡高等学校建造のため、敷地は埋め立てられ、ついに消滅してしまいました。
現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、「望潮の入江」といわれた池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけとなっています。(下写真)

私が訪ねた時には黄葉がかろうじて残っていました。
大イチョウは忍岡高校内あるため、近くで見るには、忍岡高校の許可が必要になります。上写真は、忍岡高校に許可を得て校内から撮影したものです。2回目にお邪魔した時には断られましたから、必ずしも常に許可されるわけではなさそうですので、ご注意ください。
それでは改めて、皆様、よいお年をお迎えください。
赤印が「蓬莱園跡」の石碑と台東区教育員会の説明版設置場所です。
青印が忍岡高校内にある大イチョウです。

