2020年のお正月も松飾りもとれてビジネスマンも仕事を本格的に始める時期です。
このブログでも、昨年からシリーズで書いている「新江戸百景めぐり」を順に書いていきたいと思います。
今日は、護国寺について書いていきます。護国寺は昨秋に訪ねていますが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では95ページの第47景で紹介されています。
下写真は、正面からみた観音堂(本堂)です。

護国寺の歴史
護国寺は、奈良の長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の大本山で、正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)といいます。
天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により創建されました。
桂昌院は、上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢に深く帰依しました。
亮賢は、大和国長谷寺で修業した僧で、当時、霊験ある祈祷僧として有名でした。
そこで、桂昌院が懐妊したとき、亮賢に占ってもらうと「この子は将来、天下を治める器である」とのことでした。喜んだ桂昌院は亮賢に安産祈祷を命じます。こうして無事に生まれた子が、のちの綱吉です。
この後、亮賢は護持僧として桂昌院に仕えるようになりました。
綱吉が将軍になった翌年の天和元年(1681)に、桂昌院の願いにより、亮賢を開山に招いて将軍家が所有していた高田薬園の地に創建されたのが護国寺です。
護国寺は、桂昌院の信仰する念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」をご本尊として、当初は将軍家の私的な祈願寺として建立されました。創建当初の寺領は300石でした。
天和3年2月、桂昌院は初めて護国寺に参詣し、元禄3年(1690)11月には将軍綱吉が訪れます。その後、元禄7年には綱吉・桂昌院が一緒に護国寺に参詣し、寺領は加増されて600石になりました。
桂昌院の護国寺への参詣は年2回が定例になり、生涯で15回参詣していて、そのうちの4回は、将軍綱吉も桂昌院と一緒に参詣しています。
護国寺には、江戸時代の建築物が数多く残されていますので、それらを中心に重要な建物を順にご紹介します。
仁王門
仁王門は、不忍通りに面して建っています。切妻造り、丹塗りの八脚門で、桁行は11.5m、梁間6m、軒高5m、棟高5mあります。建立は、元禄10年に造営された観音堂(現本堂)よりやや時代を下ると考えられているようです。
正面両脇間には金剛力士像(向かって右に阿形、左に吽形)が、門の裏側両脇には仏法を守る仏像である二天像(増長天、広目天)が安置されています。

惣門
仁王門は地下鉄の出口のそばにあるため、護国寺の門というと仁王門のほうが目立ってしまいますが、仁王門の東側に立派な門があります。これが惣門です。
惣門は、将軍綱吉あるいは桂昌院の御成のために造られた御成門です。5万石以上の大名の格式で造られたものです。大名屋敷の門で現存しているものは、大部分が江戸時代後期のものなので、元禄年間のものは非常に貴重なものとして文京区の有形文化財に指定されています。

不老門
不老門は、仁王門をくぐってまっすぐ本堂(観音堂)へとつづく石段の中腹にあ り、中門の役割を果たしています。昭和13年4月に三尾邦三氏の寄進により建立されたもので、護国寺境内では比較的新しい建物です。
鶴は千年、亀は万年といわれように、この門をくぐれば病気にならず、長寿の願いが叶うといわれる門で、形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものだそうです。正面に高く掲げられている「不老」の二字は徳川家達公のご執筆です。

石段の下の左右には水舎があり、ここには桂昌院により寄進された手水水盤が置かれています。この手水水盤は、元禄10年(1678)に製作されたと考えられています。

元禄年間奉納の銅灯籠
不老門をくぐり、本堂に向かう石段を登ると両側に銅灯籠があります。
下写真は右側の銅灯籠です。
よくみると谷村藩主秋元喬朝が元禄10年に寄進したと刻まれています。

大師堂
本堂手前東側の一段低くなった場所に大師堂があります。大師堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に修理して、現在地に移築して大師堂としたものです。擬宝珠(ぎぼし)には宝永2(1705)、正面前方の石灯籠には寛政2年(1790)の銘があります。

鐘楼
本堂の右手手前には鐘楼があります。鐘楼形式のなかでも格式の高い袴腰付重層 入母屋造りという形式で造られていて、江戸時代中期の建立とのことです。
袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げでできています。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれていて、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼は天保期から存在していたことになります。
鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、現在は本堂内部の南西隅に吊るされています。銘文には、徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているそうです。本堂隅にありますので、見落とさないように気をつけ

月光殿
月光殿は、もと大津三井寺の塔頭日光院の客殿を移築したもので、国指定重要文化財です。
桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を行なっています。
桃山期の書院風建築の代表的なもので、床の間の壁画は狩野永徳の筆と伝えられ、水墨で蘭亭曲水の図が描かれています。ほかの襖絵は狩野派の絵師による花鳥図が描かれていたそうですが、現在は原美術館が所蔵しています。

観音堂(本堂)
現在の観音堂は、元禄10年(1697)に、半年余りの工期をかけて完成しまし た。
当初の観音堂は、天和2年(1682)に建てられたもので、36坪という小規模な建物でした。
元禄10年に建て替えられた観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物で、十四間十一間半(広さ161坪)の規模を誇ります。ちなみに、この観音堂の材木は紀伊国屋文左衛門が調達したものだそうです。
観音堂は幸いにも関東大震災や戦災を免れて、元禄時代の姿を今に留めており、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。元禄時代の大建築物が東京に残っていることに驚かされるとともに、都内とは思えないような光景に心を打たれます。

☆如意輪観世音菩薩像
護国寺のご本尊様は、桂昌院の念持仏だった天然琥珀製の六寸五分の如意輪観世音菩薩像です。この琥珀製の観音像は、元禄13年(1700)に秘仏本尊として奥ノ院に移されました。
そして、新たに平安時代の恵信僧都作と伝えられる木製の如意輪観世音菩薩像が祀られました。
木製の新しい観音像は、大老堀田正俊の母堀田栄隆尼により寄進された五尺六寸の六臂の観音様で、毎月18日の御縁日だけに開帳されます。
今回、観音像の写真撮影を護国寺様にお願いしましたところ、護国寺様が撮影された写真の転載をお許しいただけました。右の写真は護国寺様のHPから転載させていただいたものです。
☆『悉地院 (しっちいん)』の篇額
本堂内陣の上に、徳川綱吉直筆の『悉地院(しっちいん)』の篇額が掲げられています。これは、観音堂造営の記念として奉納された横3尺5寸、縦7尺の檜の板に刻まれたものです。綱吉直筆の額が残されていることに驚きました。
なお、本堂内は撮影禁止ですが、以前に護国寺様の特別のご配慮によりご許可いただいた上で写真撮影させていただいた時の写真を掲載させていただきました。

青印が護国寺の惣門です。仁王門の東側にあります。
緑印が本堂(観音堂)です。

