護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2)
今日は、新江戸百景めぐりの護国寺の2回目で、護国寺に眠る有名人をご案内します。護国寺には、大勢の有名人が眠っていますが、江戸時代の有名人はほとんど眠っていなくて、明治以降の有名人が眠っています。今日は、そうした有名人の中で特に有名な人のお墓をご案内します。
護国寺でのお墓参りは、護国寺の本堂(観音堂)の中にある寺務所にお願いするとお墓の地図を無料で配布してくれますので、それを見ながらお参りするといいと思います。
お墓は、本堂の東側と北側そして北西側に大きく広がっています。今日は南東側から北西側に順にご案内します。
安田善次郎
安田善次郎は、安田財閥の創設者です。安田財閥は、現在は多くの企業が合併して名称が変わっていますが、昔の富士銀行、安田生命、安田火災などが主要企業です。
安田善次郎の墓所は、本堂の南東側にあります。前回ご案内した鐘楼の東側にあります。
周囲は塀で囲まれています。正面は下写真のように立派な門があります。
下写真は、前面の扉の隙間から写したものです。
安田善次郎は富山県富山市の出身ですが、江戸に出て両替商で奉公しました。
このころに、後で紹介する大倉財閥の創設者大倉喜八郎と知り合っています。
その後、独立し安田商店(のちの安田銀行)を開業し、金融業を中心に、業務を拡大し、安田財閥を育てあげました。
ところで、安田善次郎がどのようになくなったか、ご存知ですか。
実は、大磯の別荘で、右翼の人物に刺殺されているのです。安田善次郎は、世間的な寄付を好まなかったので誤解され殺されたといわれています。
しかし、実は多くの寄付を行う意向がありました。安田善次郎は、暗殺される前、東大の安田講堂の寄付を約束していました。また、日比谷公会堂も、安田善次郎が寄付すると生前約束していたものです。
この二つとも安田善次郎の死後に完成しました。
大隈重信
大隈重信のお墓は本堂の北東に広い墓域を占めています。
墓所の前に鳥居があるので、よく目立ちます。
大隈重信は、早稲田大学の創設者として、あるいは総理大臣経験者として有名です。
大隈重信は、肥前国の出身者です。肥前藩は、明治維新後は薩長土肥として有力な藩閥を形成しましたが、幕末の倒幕運動にはあまり大きな力を発揮しなかったようです。
大隈重信も、倒幕運動の中では目立った実績はありませんが、明治新政府になってから頭角を発揮し、参議や大蔵卿を兼任し活躍しました。
大久保利通が暗殺された後は、明治政府の中心人物となりました。しかし、明治14年、即時議会開設を主張したこともあって、薩長藩閥勢力に排斥され、10月参議を辞任しました。これはが「明治十四年の政変」と呼ばれる事件です。
政変後、政党結成を実行に移し、立憲改進党を結成してその総理となり、また東京専門学校(1902年早稲田大学と改称)を創立しました。
その後、第一次伊藤博文内閣で外務大臣に復帰し、条約改正に努力しましたが、そのさなか、爆弾を投げつけられました。幸い命は取りとめましたが右足を切断する重傷を負いました。
その後、2回、総理大臣を経験しています。
大隈重信は、早稲田大学を創立したように教育にも熱心で、同志社大学や日本女子大学の設立も支援をしています。
大正11年1月10日胆石症で死去し、日比谷公園で国民葬が行われました。
この時、早稲田の私邸から日比谷公園に向かう行列には早稲田大学関係者2万人が参加したといわれています。また、国民葬には10万人が参列し、行列は神田橋まで続いたそうです。そして、葬儀の後、葬列は護国寺に向かい、埋葬されました。
松平治郷(はるさと)
大隈重信の墓所の北側に、出雲国松江藩主松平家の墓所があります。松江藩の幕末の石高は18万6千石ですが、18万石の墓所としてはあまり広くはありません。その松平家の墓所の入り口にの第7代藩主松平治郷の墓があります。
松平治郷は不昧(ふまい)と号したので、松平不昧のほうが有名かもしれません。松平治郷は、17歳で松江藩藩主となりました。それは、家老朝日丹波を中心とした御立派(おたては)の改革の中で擁立されました。改革は勧農抑商を基調として藩財政の立て直しをすすめ成功しましたが、朝日丹波が隠居した後に財政状況はふたたび悪化し、寛政8年(1796)からは治郷自身が親政した後、56歳で隠退しました。その後は、江戸品川の別邸大崎園に数々の茶室を営み風流三昧の生活を送りました。
松平治郷は、お茶を将軍御数寄屋頭の伊佐幸琢(こうたく)にまなび、石州流不昧派を起こしました。藩財政の好転に伴い道具収集に乗り出し、江戸後期最大の収集者となり、収集した名物道具を分類整理して『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)』18巻を著しています。
三条実美
三条実美の墓所は、本堂の北側にあります。三条実美のお墓の前にも鳥居があります。
三条実美は、幕末には、攘夷派の若手公卿として活躍しましたが、8月18日の政変で京都を追われて長州に下ったのち、長州征伐で大宰府に移りました。
王政復古により京都に戻ることが許され、明治新政府では、太政大臣となり明治政府の最高官となりました。
その後、明治18年内閣制度が発足した際に内大臣となりました。
最初の総理大臣は伊藤博文ですが、この際、三条実美も有力候補者でした。
しかし、総理大臣を選ぶ会議で、英語がわかる人物ということから、伊藤博文が総理大臣ときまった逸話があるそうです。
明治24年(1891年)に55歳でなくなり、護国寺に埋葬されました。
三条実美の墓所の入り口には大きな神道碑があります。この神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するために建てられた碑で、その人物の墓所参道に建てられました。
三条実美のほかに、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、島津久光、大原重徳などの神道碑が明治天皇の命令により建てられました。
山県有朋
本堂の北側には多くの人が眠っています。その中に山県有朋の墓所もあります。
山県有朋の墓所も塀で囲まれていて、入口は鍵がかかっているため中に入ることができません。また、お墓が入口の正面にないため、お墓を正面から撮ることはできません。下写真は墓所の脇から撮影したものです。奥が山県有朋のお墓です。
山県有朋は、長州出身の政治家・軍人です。松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。長州藩倒幕派に加わり、高杉晋作がつくった奇兵隊軍監として活躍しました。
明治新政府では、徴兵制を実現し参謀本部を設置し初代参謀本部長になるなど近代軍制の基礎を築きました。
政治家として、2回総理大臣を務め、伊藤博文が暗殺された後は、政界・軍部・官界に絶大な影響力を発揮しました。
しかし、最晩年は宮中某重大事件を引き起こし、大正11年2月1日失意のうちに没し、国葬が行われました。
この直前に行われた大隈重信の葬儀には多くの国民が参列しましたが、山県有朋の国葬には、軍人中心に1000人程度が参列するという状況だったそうです。
築庭・造園に趣味をもち、目白の椿山荘は、山県有朋の別荘でした。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園も山県有朋に関係する庭園です。
大倉喜八郎
大倉喜八郎は大倉財閥の創設者です。大倉喜八郎の墓所は、山県有朋の墓所に行く手前にあります。下写真の東側が大倉喜八郎のお墓です。右は夫人のお墓です。
大倉喜八郎は、新潟県新発田の名主の家に生まれ、江戸に出て、かつお節店の店員となった後、独立し銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大しました。
戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は新政府軍、幕府軍の双方から注文がありました。新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、官軍に鉄砲を売っていたことで、彰義隊に連行されましたが、「官軍は現金払いなので売った」と説明し解放されたというエピソードがあります。
明治維新後は欧米視察のうえ、明治6年、大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。
この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥となりました。
とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かいものがありました。
ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅後に建てられたものです。
ホテルオークラに隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。また、東京経済大学は大倉喜八郎が作った大倉高等商業学校が発展したものです。
昭和3年に大腸がんのため永眠しました。享年92歳でした。
山田顕義
本堂の西北に大きな墓所があります。山田顕義の墓所です。
きれいに整備されている明るい墓所です。
明治維新後、陸軍少将となり、岩倉具視の遣欧使節に随行しフランスはじめ各国の兵制を調査し、帰国して東京鎮台司令長官となりました。佐賀の乱征圧のため九州に出征し、西南戦争には別働第二旅団長として出征し、戦後、陸軍中将に昇進しました。
第一次伊藤博文内閣に司法大臣として入閣し、以後第一次松方正義内閣まで4内閣に司法大臣として留任、条約改正の前提として法典編纂にあたりました。
山田顕義は、日本大学の創設者でもあります。日本大学は、山田顕義が司法大臣の時に開設した日本法律学校を起源とした大学です。
神道の擁護にも熱心で、有栖川宮幟仁(たかひと)親王を初代総裁とする皇典講究所の初代所長に就任し、国学院(國學院大学の前身)を創設しました。
なお、1891年に起きた大津事件では、担当大臣として大逆罪を適用するよう大審院の裁判に圧力をかけたことでも有名です。