小石川後楽園②(新江戸百景めぐり57-2)
今日は、小石川後楽園の2回目です。今日は、小石川後楽園の中の中国趣味の風景、そして藤田東湖と造兵廠の石碑についてご案内します。
小石川後楽園に中国趣味があるのは、小石川後楽園を造営した水戸藩2代藩主徳川光圀が招聘した中国の明の遺臣朱舜水の影響があります。
そこで、まず朱舜水について書いていきます。
朱舜水は、中国の儒学者です。
中国の明に時代に活躍していましたが、明朝が滅亡し清朝が成立すると、朱舜水は明朝再興のための運動に参加し、鎖国政策下の日本へ救援を求める使節として派遣されていました。
しかし、明朝復興のための戦いが思うように進まないため、復興を諦めて長崎へ亡命しました。
そして、水戸藩藩主の徳川光圀が朱舜水を招聘し、朱舜水は江戸に移住しました。
朱舜水が住んでいたのは、本郷の水戸藩中屋敷でした。
水戸藩中屋敷跡は、現在東京大学農学部となっていますが、東大農学部の正門近くには“朱舜水先生終焉之地”と記された碑が建てられています。
徳川光圀は、朱舜水から大きな影響を受けています。
後楽園と名付けたのも朱舜水であると言われています。
また、日本で初めてラーメンを食べたのは、徳川光圀であると有名な話がありますが、そのラーメンを献上したのは、朱舜水だったと言われています。
西湖の堤
西湖の堤は、前回紹介した渡月橋の近くにあります。この石堤は、中国の西湖(せいこ)の蘇堤を模したものです。

西湖は、中国の名勝地で、当時の日本人のあこがれの的で、詩歌や絵画の題材とされていました。
この西湖の堤は、光圀が朱瞬水の設計を取り入れて造ったものと言われています。
円月橋とともに中国趣味の風景で、これ以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなったものです。現在、芝離宮恩賜庭園にも西湖の堤があます。

円月橋
円月橋は、朱舜水の指図により、駒橋という石工が造ったものです。
この橋は、中国の山水画にある橋柱のない橋です。
橋柱がないため、橋が水に写った様が、満月のようであるので、円月橋と名づけられています。

長さが約11メートル、幅約2メートル、中央部の高さが4メートルあります。アーチの半径は2.42メートルです。
8代将軍吉宗が吹上御苑にこのような橋を作らせようとして、石工を後楽園に派遣させて研究させましたが、難しいと伝えたのであきらめたとの逸話もあるそうです。
「藤田東湖先生護母致命之処」の石碑
小石川後楽園の北東の隅に「藤田東湖先生護母致命之処」の碑が建っています。(下写真)

藤田東湖は、斉昭の側用人を勤めた人物で、戸田忠太夫とともに、徳川斉昭の腹心として、幕末の水戸藩を支え、水戸の両田と称されました。
号の「東湖」は生家が千波湖の東にあったことにちなむといいます。
父は水戸学者・藤田幽谷です。
徳川斉昭の藩主就任運動を進め、斉昭が藩主になると、側用人として藩政改革にあたり、斉昭の絶大な信用を得ました。しかし、斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚しました。
その後、ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、再び斉昭を補佐することになり、安政元年(1854年)には側用人に復帰しました。
しかし、翌年の安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去しまた。享年50歳でした。その亡くなった場所を示す石碑です、
東湖は地震発生時に一度は脱出したものの、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追って邸内に入りました。邸内に入ると梁が落下してきて、その梁から母親を守るために自らの肩で受け止めました。
東湖の母親は、東湖が受け止めたため、何とか母親は無事でしたが、東湖は下敷きとなって圧死したといわれています。
下写真は全体写真、正面の高い石碑が「藤田東湖先生護母致命之処」の碑です。

藤田東湖が圧死した場所は、東京ドームの東側です。
この石碑は、もともと、昭和17年に建てられ、白山通りが拡幅された際に移転されたものです。
石碑の脇には、昭和54年に石碑を移した経緯を書いた石碑があります。(下写真)

その石碑には次のように書いてあります。
安政2年(1855)10月2日江戸を襲った大地震の際、水戸藩の碩学者藤田東湖は母を救わんとして臣死した。後世有志相謀り、文京区後楽1-3-40(旧水戸藩武家屋敷跡)東湖在住跡地へこの碑を建立したが、周辺は今や企業の所有に帰したるを以って特に碑を此処へ移して永久に東湖の譲母致命の所以を伝えんと欲するものである。
昭和54年(1979)3月吉日 茨城県人会連合会
陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑
小石川後楽園は、庭園のイメージが強いのですが、明治から昭和初期には、軍需工場でもありました。
そのため、入口からは最奥部になる内庭に、「陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑」と刻まれた石碑があります。

水戸藩上屋敷には、明治4年に小銃などの兵器を造る造兵司が移されました。そして、明治12年、東京砲兵工廠と改称されました。
大正12年に造兵廠と改称された直後の関東大震災で甚大は被害を受けました。そして、昭和8年、小倉に移転され、その役目を終わりました。
この碑は、移転後2年の昭和10年に建立されたもので、碑の形は造兵廠の敷地の形状です
造兵廠の広さは13万坪あったそうです。
東京ドームも、造兵廠の跡地に経っています。

