牛込見付(新江戸百景めぐり58)
今日の新江戸百景めぐりは、前回の小石川後楽園の近くの牛込見付のご案内をします。
「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では44ページの第5景で紹介されています。
私は、牛込門と呼んでいましたが、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では「牛込見付」と呼んでいるので、ここでも「牛込見付」としておきます。
現在は、牛込見付といっても、江戸好きの人はピンとくるかもしれませんが、一般の人はピンとくる人はあまり多くはないのでないかと思います。
牛込見付は、江戸時代は、三十六見附の一つであり、上州方面への出口であるため、「上州口」とも言われました。
牛込見付は、現在のJR飯田橋駅西口にありました。
現在も、JR飯田橋駅西口に牛込見付の石垣が残されています。(下写真)

ちなみに現在の飯田橋は、江戸時代にはありませんでした。当時は、外堀を越えるには牛込見付から渡っていました。
牛込見付は田安台から牛込方面にでる門で、牛込門や牛込口とも呼ばれていました。
牛込御門から市ヶ谷門にかけては、江戸時代には、堀の幅が100mもありましたが、現在では大分狭くなっています。
別名で楓門とも言われますが、秋の紅葉は素晴らしかったそうです。

駅西口にある飯田橋駅前交番の北側脇にも巨石が残されています。(上写真)
牛込門は、寛永13年(1636)に枡形石塁が、そして寛永15年(1638)に門が、阿波徳島藩藩主蜂須賀忠英によって築かれています。
交番脇の巨石の左下隅に「阿波乃國」の刻印がされていて、阿波藩で築いたことを物語っています。下写真は刻印の部分を拡大したものです。巨石の一番下に左から右に「阿波乃國」と刻まれています。

外堀は、高低差があり、市ヶ谷寄りと小石川寄りで水位差があるため、土橋(土で作られた橋)で市ヶ谷方面の水を支え、小滝を設けて小石川方面に水を落としていました。
土橋となっているため、牛込見付まで、船は入ってくることができましたが、これから先には上れませんでした。
【1月24日追記】浄瑠璃坂の仇討
牛込見付の土橋近くで起きた大事件が浄瑠璃坂の仇討です。
浄瑠璃坂の仇討ちは、江戸三大仇討ちの一つに数えられる仇討で寛文12年(1672)2月3日、江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で、奥平源八が父を殺害した奥平隼人を討ち果たした事件です。
事件の発端は、寛文8年(1668)3月2日、宇都宮の興禅寺で宇都宮藩前藩主奥平忠昌の二七日法要が行われ、法要後、奥平内蔵允と奥平隼人の2人の重臣が、諍(いさか)いを起し、激怒した奥平内蔵允が奥平隼人に向かって斬りかかりました。この時、奥平隼人は軽い傷ですみましたが、奥平内蔵允は奥平隼人から反撃され、大怪我をしました。奥平内蔵允の受けた傷は深手で、その傷がもとで亡くなりました。
2人の喧嘩に対して藩の処分が下され、奥平源八も奥平隼人も追放となりました。2人は、それぞれ宇都宮を離れ、奥平源八とそれを支持する人たちは、藩の処分に納得せず奥平隼人を討ち果たして仇を討とうということになりました。
宇都宮藩を追放された奥平隼人は、各地を転々として江戸に入り、最終的には市ヶ谷浄瑠璃坂上の鷹匠頭戸田七之助の屋敷へ身を隠しました。
そこに、寛文12年(1672)2月3日午前4時ごろ、身支度をととのえた奥平源八とその一党42名が奥平隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入りました。
討入った時、奥平隼人は不在でしたが、激闘が展開されました。この戦いの中で多くの隼人の助太刀も討ち取られましたが、肝心な隼人が見つかりませんでした。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党が、屋敷から引き上げて浄瑠璃坂を下り、牛込土橋に近づいたところ、奥平隼人が、手勢を率いて追ってきました。そこで、奥平源八は、隼人と対決し、ついに隼人を討ち取りました。
この際に、奥平隼人は外堀に逃げこみ、それを追った奥平源八は、 堀の中で隼人を討ち取ったともいわれています。
赤印が牛込見付の石垣です。
青印が交番脇の巨石です。
緑印がJR飯田橋駅の西口です。

