神楽坂(新江戸百景めぐり59)
新江戸百景めぐり、今日は、神楽坂をご案内します。
JR飯田橋駅西口を出て牛込見付を見て北に直進すると外堀通りと交差しますが、そのまま直進する坂が神楽坂です。
坂の入口には、神楽坂の標柱が建っています。
それには、次のように神楽坂の地名の由来が書かれています。
「坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。」

神楽坂を登っていくと西側に善國寺があります。
善國寺が創設されたのは、桃山時代末の文禄4年(1595)です。
初代住職は仏乗院日惺上人で、池上本門寺12代貫首を勤めました。日惺上人は、関白二条昭実の実子であり、以前から徳川家康と親交を持っていました。
天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府した際、 上人が祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷をしたことを伝え聞き、人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、「鎮護山・善国寺」の山号・寺号の額を贈りました。
水戸藩主徳川光圀も善国寺の毘沙門天様に信仰し、寛文10年(1670)に焼失した際には、善国寺を麹町に移転し再建したといいます。その後、寛政4年(1792)の火事により、神楽坂へ移転してきました。
下写真が本堂です。

善國寺の御本尊は、毘沙門天で、日惺上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条昭実からいただいたものと言われています。
毘沙門天は、インド出身の神様で、仏様や仏法を守る役目を担い、四天王の一つとして北方守護を司ります。また、多聞天とも称します。
毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなりました。
善國寺は、神楽坂毘沙門天として江戸の三毘沙門の随一として江戸っ子の篤い信仰を集めていました。
本堂の前に虎の石像があります。右が阿形、左が吽形です。下写真は阿形の像です。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、台石を含めた総高は2メートルを越えます。

大久保通りを横切り神楽坂を登っていき、東京メトロ神楽坂駅近くに、赤城神社があります。
赤城神社は、正安2年(1300)に、上野国勢多郡大胡(現在の群馬県前橋市大胡)の豪族大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、鎮守であった赤城神社の御分霊を牛込早稲田田島村(現・早稲田鶴巻町、元赤城神社の社地)に奉斎したのが創祀であるとされています。
戦国時代の寛正元年(1480)に太田道潅により牛込に遷され、さらに弘治元年に(1555)には大胡氏の子孫である牛込氏によって現在地に再遷座されたといいます。下写真はメトロ出口から見える鳥居です。

そして、天和3年(1683)江戸幕府は赤城明神社を江戸大社に列し牛込の総鎮守としました。
江戸時代まで赤城大明神と称されていましたが、明治に入り赤垣神社に社号に替えました。
赤城神社は、すごく近代的な社殿になっています。
これは、2020年東京五輪の主会場となる『新国立競技場』をデザインした事でも有名な隈研吾さんが設計したものです。下写真は御社殿です。

本殿の手前西側には天神様が鎮座しています。こちらの天神様は『蛍雪天神(けいせつじんじゃ)』と呼ばれています。
天神様としては珍しい名前だなと思いましたが、こちらの神社は、2005年に『旺文社』の寄付により再興されたです。そういえば、『旺文社』の発行した雑誌に「蛍雪時代」という本がありましたね。


