神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)
神楽坂からは少し離れますが、神楽坂坂上から大久保通りを東に歩いていくと筑土八幡神社があります。神楽坂周辺はには史跡が結構あります。それで、今日は神楽坂からはちょとと離れますが、筑土八幡神社と「寒泉精舎跡」をご案内します。
筑土八幡神社
筑土八幡神社は、神楽坂上からは徒歩6~7分、JR飯田橋駅からは徒歩10分です。
下写真は、大久保通りに面して建っている社標です。

筑土八幡神社の御祭神は、八幡神社の名前の通り、応神天皇、神宮皇后、仲哀天皇です。
筑土八幡神社の御由緒は、一の鳥居近くに設置されている説明板によれば、今から約千二百年前の平安時代の嵯峨天皇の御代に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいました。
ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、 雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまりました。
翁は神霊の現れたことを知り、このことを里人に語り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀ったそうです。
その後のことついて、説明板には、「伝教大師(※)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀りました。」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」によればここを訪れたのは慈覚大師であり、「江戸名所図会」には、「慈覚大師、東国遊化の頃、伝教大師彫造したまうところの阿弥陀如来を本地仏とし、小祠を経始す」と書いてあります。これらの説明と説明版とは、訪れた人物名が少し違うようです。下写真が社殿です。

筑土という名前について、説明板には「伝教大師がこの地を訪れた時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」には「築き立てた地の意味である」とも書いてあります。
その後、文明年間に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社殿を造って、この地の産土(うぶすな)神としたそうです。
現在、境内地は約2200平方メートルあり、前の社殿は昭和20年の戦災で焼失してしまい、現在の社殿は、昭和38年に再建されたものです。
参道の石段の途中には石造りの鳥居があります。この鳥居は、高さは 3.75 メートルあり、享保 11 年(1726 )に建立された鳥居で、新宿区内最古の鳥居で、新宿区の有形文化財に指定されています。(下写真)

この鳥居の右側の柱の裏側には奉納した人の名前が刻まれています。
それにより常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納されたものであることがわかります。(下写真)
黒田直邦は、旗本中山直張の三男に生まれ母方の祖父黒田用綱の養子となりました。黒田用綱はのちに5代将軍となる徳川綱吉が藩主であった舘林藩の家老であったことから、徳川綱吉に仕えるようになりました。綱吉が5代将軍となったことから幕臣となり、徳川綱吉に寵愛され、元禄16年(1703)1月常陸国下館藩1万5千石の藩主となりました。宝永4年に5千石加増され、2万五千石となっています。そして、享保17年(1732)3月に上野国沼田藩に3万石で移封され、同年7月、西の丸老中に就任しました。
享保20年3月26日になくなり、埼玉県飯能市にある能仁寺に眠っています。
寒泉精舎跡
飯田橋駅と筑土八幡神社の中間に「寒泉精舎跡」があります。「寛政の三博士」の一人岡田寒泉の家塾の跡です。
目印のなるのがJCHO東京新宿メディカルセンターですが、その少し手前の大久保通りの西側に「寒泉精舎跡」 と書かれた新宿区教育委員会が設置した説明板があります。
よく探さないと見落としてしまいますが、ドラッグストア「くすりの福太郎」が目印となります。下写真

岡田寒泉は江戸時代後期の儒学者で「寛政の三博士」の一人に数えられています。また、下総国の代官も勤めた幕府の役人でもあります。
岡田寒泉は、江戸牛込に1200石の旗本岡田善富の次男として生まれました。
通称清助といい、寒泉と号しました。寒泉という号は、自宅を寒泉坊といったことによるもので、それは、近くに冷水(ひやみず)の井という井戸があったことにちなむものだそうです。
武芸のほか、兵学を村主淡斎(すぐりたんさい)に、詩文を井上金峨(きんが)に学びました。また、淡斎の子村主玉水(すぐりぎょくすい)から山崎闇斎系の朱子学を学びました。
寛政元年(1789)に松平定信に抜擢されて幕府儒官となり昌平黌(後の昌平坂学問所)で経書を講じました。50歳の時でした。
松平定信の寛政の改革の中で学政や教育の改革に当たり、共に改革を進めた柴野栗山、尾藤二洲とともに「寛政の三博士」と呼ばれました。
寛政6年(1784)に下総の代官に転任しました。岡田寒泉が転任したため、その後任の古賀精里が岡田寒泉の代わりに寛政の三博士の一人に数えられるようなりました。
なお、佐賀藩の儒官であった頃の古賀精理自身の手紙に、「寛政の三博士」の呼称が使用されているので、岡田寒泉が最初の「寛政の三博士」の一人であることは明らかと「岡田寒泉」(重田定一著)に書かれています。
岡田寒泉が、代官として民政にあたったのは、常陸国内の182カ村でした。
それ以降14年間、代官として、荒廃の進む農村の立て直し,人口回復に尽力しました。
そのため、名代官の一人に挙げられていて、茨城県内には、つくばみらい市の板橋不動院や筑西市寺上野公民館など各地に岡田寒泉を顕彰する石碑が建てられています。
岡田寒泉は、当初父(または兄)の屋敷に同居していましたが、寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から屋敷を拝領し、自宅の隣地328坪6余の土地も与えられ、寒泉精舎(かんせんしょうしゃ)と名付けた家塾を開きました。
自宅部分は、明治以降、道路となりましたが、寒泉精舎のあった部分に新宿教育委員会設置の説明板があります。

文化12年 (1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖して土地を返上しました。
翌文化13年8月9日、岡田寒泉は77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られました。
赤字が筑土八幡神社です。
青印が寒泉精舎跡の説明板の設置場所です。

