六義園①(新江戸百景めぐり61-1)
今日は、『新江戸百景めぐり』で六義園をご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、86ページの第36景で紹介されています。
六義園は、JR山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩12分のところにあります。
駒込駅近くの染井門は、春の桜の季節や秋の紅葉の季節のみ開く門で、通常は閉鎖されているため、南側にある正門に向かう必要があり、染井門から10分程歩く必要があります。下写真が正門です。

六義園は、柳沢吉保が作った庭園です。
元禄8年(1695)に柳沢吉保が拝領した下屋敷に、7年間かけて元禄15年に完成した庭園です。
現在、広さは、約3万坪あります。
六義園の名前は、中国の古い書物である「詩経」に出てくる「六義」からとった名称です。「六義」という言葉は、詩の分類を表すもので、次の六個を指します。
賦(ふ) 感想をそのまま述べたもの
比(ひ) 例をとって感想を述べたもの
興(きょう) 外の物にふれて感想を述べたもの
風(ふう) 民間で行われる歌謡
雅(が) 朝廷でうたわれる雅な歌
頌(しょう) 祖先を讃える歌
現在は、音読みで「りくぎえん」と呼ばれていますが、六義園が作られた際には、柳沢吉保は日本風に「むくさのその」と呼んでいたようです。
宝永6年(1709)綱吉がなくなると、柳沢吉保は、長男の吉里に家督を譲って隠居し、隠居後は六義園で過ごしました。
吉保の孫3代の柳沢信鴻(のぶとき)までは、六義園はかなりしっかりと管理されていたようです。特に3代柳沢信鴻(のぶとき)は隠居後、この六義園に住んで、芝居などをよく観に行っていました。
しかし、寛政4年(1792)信鴻が亡くなると、それ以降20年間ほど、ほとんど六義園は利用されず荒廃していました。そこで、文化6年(1809)、4代保光の時に復旧工事が行なわれています。
明治以降は、六義園は三菱家のものになります。
明治11年に三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が手に入れました。そして、弥太郎の長男の岩崎久弥の時代には、久弥の本邸として使用されていたこともありました。
そして、昭和13年4月岩崎久弥から庭園を中心とした3万余坪が、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。
六義園の正面を入り少し歩くと大きな門「内庭大門」が見えてきます。

内庭大門は、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。
かつては門をくぐった先、しだれ桜のある場所あたり(下写真)あたりに岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸があったようです。

六義園を訪ねた時は、冬景色で、しだれ桜は、枝ばかりでした。
しかし、春には下の写真のように見事な花をさかせます。
枝垂桜は、高さ約15m、幅約20mもあります。
3月下旬の満開の時期には、ライトアップもされて大勢の花見客が訪れます。

「シダレザクラ」は、「エドヒガン」という桜の品種の一種で、枝が下に垂れているため「枝垂れ桜」と呼ばれています。
「ソメイヨシノ」より少し早く咲きます。非常に有名な桜ですが、昭和30年代に、東京都によって植えられたもので、樹齢はまだ60~70年だそうです。
赤印が六義園正門です。
青印がしだれ桜です。

