六義園② 紀州の景勝地 (新江戸百景めぐり61-2)
今日も、六義園の続きです。
六義園は、紀州の景勝地を多く取り込んで造られています。
六義園のうちには、妹背山、吹上浜、紀ノ川、藤代峠、和歌浦がありますが、これらは、万葉集や古今和歌集などに詠まれた紀州の景勝地を模した景色です。
そこで、今日は、六義園内の紀州にちなむ風景をご案内します。
六義園のしだれ桜をすぎると目の前が大きくひろがり、正面に大きな泉水が見えてきます。その泉水の中央に「中の島」があります。(下写真)

その「中の島」周辺に紀州にちなむ景色がありますので、そこからご案内します。
妹背山
「中の島」の中にある山が「妹背山」と呼ばれています。
古くは女性のことを妹(いも)、男性のことを背(せ)と呼びました。
妹背というと、夫婦や兄と妹または姉と弟を言いました。
この中の島は男女(夫婦または兄妹)の間柄を表現しているそうです。
六義園のモデルとなった紀州(和歌山県)の和歌の浦には、「妹背山(いもせやま)」のある妹背島が今もあります。
妹背山は、厳密にいうと二つの山からなっています。左の山が妹(いも)山、右側が背(せ)山です。(下写真)

背(せ)山の方が少し大きくなっているのは、背山が男性を意味しているからでしょう。
その間に大きな石がたっていますが、中央に立つ大きな石(紀州青石)は玉笹石と呼ばれています。
それは、
いもせ山 中に生たる玉ざゝの 一夜のへだて さもぞ露けき 藤原信実 新撰和歌六帖
という歌があるからです。
その大きな石は、歌の中の男女の仲を隔てる笹に見立てられています。
しかし、男女の仲を隔てる石ではあまりにも悲しいということでしょうか、別の説明では、「玉笹石」は子宝を表し、子孫繁栄を願っているとも書いてあるものもあります。
吹上の松
大泉水の北側に「吹上の松」があります。(下写真)

「吹上」という地名は全国にありますが、ここは紀州の「吹上の浜」にちなんでいます。
和歌山城の南側にある「吹上」は、かつて、西南の激しい風が白砂を吹き上げていたことからこの名が付いたといわれています。清少納言も『浜は吹上の浜』と名所の随一に挙げました。その吹上の浜には、多くの松が植えられていたそうです。
それを模して、この「吹上の松」が植えられています。
六義園が作られたときは、園内に多くのマツが植えられていたそうです。
現在は、そのほとんどは失われてしまいましたが、この「吹上松」だけは当時のものだそうです。
吹上の松の左手に「吹上茶屋」があります。(下写真)

紀ノ川
吹上茶屋から東に行くと園内で一番高い藤代峠が見えてきます。
藤代峠の登り口に広場がありますが、その広場の南側、大泉水の一部が紀ノ川に見立てられていて、「紀ノ川」と呼ばれています。(下写真)

紀ノ川というのは、奈良県の大台ケ原から流れ出し、奈良県と和歌山県を流れて和歌山市で紀伊水道に流れ込む大きな川です。
藤代峠
藤代峠は、園内で一番高い築山で、標高は35mあります。

紀州の和歌の浦近くに「藤白坂」という坂があります。
藤白坂は悲劇の皇子として古代史を飾る有間皇子が処刑された場所と有名です。
藤代峠は、その藤白坂に見立てられていると考えられています。
峠の頂上は「富士見山」と呼ばれました。名前の通り、江戸時代は、富士山が見えたようです。
江戸時代は、江戸の百名山の一つに数えられていました。
六義園全体を見渡すことができるポイントとなっています。(下写真)

渡月橋
藤代峠を降りて、東に向かうと「渡月橋」があります。(下写真)

「渡月橋」というと、京都の嵐山を思い出すと思いますが、この渡月橋は京都の嵐山の渡月橋を模したものではなく次の和歌から付けられたものです。
「和歌のうら 芦辺の田鶴の 鳴声に 夜わたる月の 影ぞさびしき」
やはり、和歌の浦に縁のある橋です。
昔は土でできた橋だったようですがが、現在では2枚の大岩による橋となっています。
出汐の湊
これまでご案内したように六義園は和歌の浦と縁の多い風景が取り込まれています。
大泉水の南東部にある「出汐の湊」も和歌の浦に縁があります。(下写真)

「出汐」とは、舟が湊(港)に入るときに、満潮になるのを待っていることだと六義園の説明板にかいてあります。
しかし、辞書には「月の出とともに満ちてくる潮」の意味とも書かれています。
ここでは、「出汐」は「月の出」とかけて、月が出るのを待っている様子を表しているそうです。
ここでは、次のような歌が詠まれています。
「和歌の浦に月の出汐のさすままによるなくたづ(鶴)の声そさひしき」
(和歌の浦に月の出と共に海の水が増してくると、干潟がなくなって飛び立つ鶴の鳴き声がさびしく響く)