赤坂氷川神社②-三次藩浅野家下屋敷跡-(新江戸百景めぐり62-2)
今回は赤坂氷川神社の続きです。
赤坂氷川神社のある場所は、江戸時代前期から中期にかけて、現在の広島県の三次にあった備後国三次藩浅野家の下屋敷がありました。
赤坂氷川神社の境内には、それを示す港区教育委員会設置の説明板があります。(下写真)

三次藩は広島藩の支藩です。初代藩主は浅野長治といいました.
浅野長治は、広島藩初代藩主浅野長晟(浅野長政の次男)の長子として生まれましたが、母が側室であったため、正室から生まれた光晟が、浅野家宗家の家督を継ぎました。
そして、長兄の長治が、三次藩を立藩しました。
三次藩は、浅野長治 → 浅野長照 →浅野長澄→ 浅野長経 → 浅野長寔と5代続きましたが、4代長経、5代長寔と2代続いて子供がありませんでした。そして、享保5年(1720)に長寔が亡くなったため断絶しました。その後、8代将軍吉宗の命によりこの地に赤坂氷川神社が鎮座するようになりました。下写真は赤坂氷川神社の御社殿です。

三次藩浅野家は、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の正室瑤泉院の実家でした。
瑤泉院は長治の娘で、落飾前は「阿久里(あぐり)」と言っていました。
阿久里は10歳で浅野内匠頭結婚しました。
なお、内匠頭と阿久里は従兄同志と書いている本も見ますが、阿久里の母親は、内匠頭長矩のおじいさん浅野長直の娘ですので、阿久里は、内匠頭長矩から見ると、おじいさんの妹の娘です。従って、正しくは「いとこ」ではなく「いとこおば」です。
瑤泉院は、赤穂事件の後、実家に戻っていました。
そのため、大石内蔵助が討ち入り前に瑤泉院を訪ねるとすると赤坂の下屋敷を訪ねることになるため、「南部坂」が舞台として登場することになります。
南部坂は赤坂氷川神社から歩いて5分ほどの所にあります。
南部坂は、南に下る坂です。
坂下には、道標があります。下写真の右下に道標が見えます。

江戸時代の初めに、南部藩の中屋敷は、現在赤坂氷川神社が鎮座している場所(つまり享保年間までは、三次藩浅野家屋敷があった場所)にありました。
南部家の屋敷のそばにあったことから、この坂が南部坂と呼ばれるようになったと言われています。
明暦2年(1656)に南部家の中屋敷と、現在の有栖川宮記念公園にあった三次藩浅野家の下屋敷の交換が行われました。
それにより、三次藩浅野家の屋敷が赤坂にあることになり、そのそばに南部坂があるわけです。
ちなみに、有栖川宮記念公園の脇にもある坂も南部坂と呼ばれています。
どちらの南部坂も坂のそばに南部家の屋敷があったため、その名前が付けられました。
南部坂と言えば、思い出すのが忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の場面です。
そこで、大石内蔵助が討ち入り前にここを訪れてひそかに別れを告げるという場面です。
これは、明治4年に河竹黙阿弥が「四十七刻忠箭計 しじゅうしちこくちゅうやどけい」を書いて歌舞伎にも取り入れられていますが、講談や浪曲でも有名です。浪曲では、桃中軒雲右衛門が口演したようです。
私は個人的には、瑤泉院からきつく扱われた大石内蔵助は、雪の降る南部坂をすごすごと登り南部坂の頂上から浅野家屋敷を眺めて深く頭を下げて瑤泉院に別れを告げるものだと勝手に思っていました。
しかし、実際の南部坂は、南に下る坂ですので、大石内蔵助は、浅野家の屋敷を出るとすぐに頭をさげて別れを告げたということになりそうです。下写真は南部坂の頂上から見下ろしたものです。

赤印が赤坂氷川神社です。
青印が南部坂です。