赤坂氷川神社③―勝海舟邸跡 (新江戸百景めぐり62-3)
赤坂氷川神社の近くに、勝海舟の屋敷がありましたので、赤坂氷川神社の続きとして勝海舟の屋敷跡をご案内します。
勝海舟と赤坂とは非常に縁の深い関係にあります。
勝海舟は、文政6年(1823)本所亀沢町の旗本屋敷(現墨田区両国四丁目の両国公園)で旗本勝小吉の子として生まれました。
成長した後、赤坂溜池にあった福岡藩黒田家の屋敷に住んでいた永井青崖(ながいせいがい)の所まで本所から通って蘭学を学びました。このことで赤坂と縁がつながったと思われます。
そして、結婚後23歳の時に赤坂田町中通り(現赤坂三丁目十三番二号のみすじ通り)の借家に住みました。
その後、36歳からは赤坂本氷川坂下に住みました。
明治元年、海舟が45歳の時に、将軍を退いた徳川慶喜に従って、駿府に移りましたが、明治5年に上京し77歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地(旧氷川小学校跡)に住んでいました。
青年時代に住んで場所は、赤坂氷川神社から少し離れていますし、その場所には説明板もありませんので、訪ねても探すのが難しいです。
しかし、本氷川坂下と旧氷川小学校の旧居跡には、説明板や石碑がありますので、訪ねやすくなっています。。下写真は、本氷川坂下の勝海舟邸跡の碑と説明板です。
そこで、本氷川坂下と旧氷川小学校跡の勝海舟邸跡をご案内します。
勝海舟邸跡(本氷川坂下)
勝海舟が、赤坂で2回目に住んだ本氷川坂下とは、赤坂氷川神社の北側の低地にあたります。
赤坂氷川神社の北側に本氷川(もとひかわ)神社がありました。そのため、赤坂氷川神社の境内の西側から北側に下る坂を本氷川坂(もとひかわざか)といいます。(下写真)
その坂下にあたる場所が本氷川坂下です。
本氷川坂下のソフトタウンというマンション(下写真)の一郭に「勝海舟邸跡」と書かれた碑が立っていてその下に説明板があります。(最上段写真参照)
勝海舟は、安政6年36歳の時に本氷川坂下に住み始め、明治元年の45歳までの約10年間は、住んでいました。
本氷川坂下に住んでいた時代が、勝海舟が最も活躍した時代だったと思います。
ここに住み始めた翌年正月には、咸臨丸でアメリカに渡っていきました。
また、坂本龍馬が海舟を訪ねてきたのもここにあった屋敷でしたし、西郷隆盛と江戸城無血開城の談判をするため薩摩屋敷に出かけたのもこの屋敷からです。
そして明治元年45歳の時に、徳川慶喜に従って静岡に移りました。
勝安房守邸跡(旧氷川小学校跡)
勝海舟が晩年を過ごした屋敷は、勝海舟が亡くなった後、氷川小学校となり、その氷川小学校も平年4年に廃止され、現在は、「赤坂子ども中高生プラザ」という港区有施設となっています。
赤坂氷川神社からは東に徒歩3分ほどの場所にあります。
プラザの前には、平成28年に建てられた勝海舟と坂本龍馬の銅像があります。(下写真)
勝海舟は、明治元年に徳川慶喜とともに静岡に一旦移住しました。
その後、明治5年に東京に戻った際に、住んだ場所がここです。
ここは、幕末には大身旗本の柴田七九郎の御屋敷がありました。お屋敷は約2500坪ありました。
その屋敷を5百両で勝海舟が購入しました。
海舟は明治5年(1872)50歳で上京し、明治32年に満76歳で亡くなるまで住み、海軍卿、伯爵、枢密顧問官として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。(銅像の裏側には 勝安房守邸跡の石碑が建っています。)
勝海舟の晩年の最も大きな仕事は、徳川慶喜の復権でした。
徳川慶喜は、静岡で謹慎しました。1年後に謹慎がとかれましたが、慶喜は東京には戻りませんでした。
明治11年に明治天皇が静岡を訪問した時にも出迎えるよう求められた時も、病気を理由に断っています。
その慶喜が東京に戻ったのは明治30年11月です。そして、義信が皇居に参内して明治天皇との会見が実現したのは、明治31年3月2日でした。
この参内の陰になって動いたのは勝海舟でした。
そして、徳河慶喜の復権にほっとしたのか翌明治32年1月21日に亡くなりました。
最後の言葉は、「これでおしまい」だったそうです。
なお、徳川慶喜の十男の精(くわし)は、海舟の孫娘の婿養子となって勝家を継いでいます。
勝海舟が亡くなった後、屋敷跡を東京都が昭和2年に氷川小学校用地として購入し、平成5年春まで港区立氷川小学校として使われていました。
赤印が本氷川坂下の勝海舟邸跡の碑と説明板がある場所です。
青印が旧氷川小学校跡です。
緑印が本氷川神社です。