「徳川宗春」も頻出問題(江戸検お得情報5)
江戸検1級頻出問題を連載していますが、今日は「徳川宗春」について書いていきます。
徳川宗春は、尾張藩第7代藩主です享保15年(1730)、兄の6代藩主継友の急死によって尾張藩主となりました。時あたかも8代将軍徳川吉宗が推進していた享保の改革の真っ只中のことです。徳川宗春は、この吉宗の方針に真っ向から対立する商業の自由放任・風俗の開放政策をとったことで有名です。
しかし、徳川吉宗に比べると徳川宗春はマイナーであることは否めません。その徳川宗春が、江戸検1級では、過去4回出題されています。
このように4回も出題されていると何らかの対策を講じておいたほうがよいと思います。
そこで、問題の典拠を探して徳川宗春について書いてある本を見てみました。
徳川宗春について書いた本がいくつかありますが、その中で、「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯」(大石学編 小学館刊)を読むと、1級問題に出題された問題はすべて正解がわかります。(何ページに書いてあるかは後記を参照してください)
そのため、1級合格をめざす人は、「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯 」(大石学編 小学館刊)を読んでおくと良いと思います。
第4回【62】「我好ことは人にもこのませ、我きらひなる事は人にも嫌はせ候ゃうに仕なすは、甚(はなはだ)狭き事にて、人の上たる者べっしてあるまじき事也」
これは、ある人物が時の将軍に対して述べたものです。誰が誰に述べたものでしよう?
い)会津藩主保科正之が、5代将軍綱吉を諫めたもの
ろ)新井白石が、6代将軍家宣に建言したもの
は)尾張藩主徳川宗春が、8代将軍吉宗の政治を批判したもの
に)大御所吉宗が、9代将軍家重に言いおいたもの
正解は、は)尾張藩主徳川宗春が、8代将軍吉宗の政治を批判したもの
「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯」のP129に書いてあります。ただし、この本では、原文ではなく現代語訳されています。
第8回【77】尾張藩7代藩主徳川宗春は、享保の改革を真っ向から批判し、8代将軍吉宗によって隠居謹慎させられます。では、宗春のその後のことについて、正しい記述はどれでしよう?
い)宗春にかわって、吉宗の息子が尾張藩主になった
ろ)宗春は隠居後、江戸の下屋敷に死ぬまで幽閉された
は)初めて外出が許されたのは、実母の葬儀のときである
正解は、に)宗春の墓石には、死後75年間にわたり金網がかけられた です。
「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯 」では、P184から190の「晩年の宗春」の中に書いてあります。
第10回【73】7代尾張藩主徳川宗春は、統制に重きをおく享保の改革に異をとなえた人物として知られています。では、宗春の政治理念を示す2つの文字は、次のうちどれでしよう? 藩主としての心の戒めとしたもので、施政方針を示した著書『温知政要(おんちせいよう)』の巻頭と巻末にも、大きく書かれています。
い)慈・忍 ろ)仁・義 は)忠・孝 に)法・理
正解は、い)慈・忍 です。
「規制緩和に挑んだ『名君』―徳川宗春の生涯」の口絵に『温知政要』の巻頭と巻末の写真が掲載されています。
第12回【76】「我好ことは人にもこのませ、我きらひなる事は人にも嫌わせそ候うらうゃうに仕なすは、甚(はなはだ)狭き事にて、人の上たる者べっしてあるまじき事也」
これは、ある人物が時の将軍に対して述べた文章です。誰が誰に対して述べたものでしよう?
い)会津藩主保科正之が、5代綱吉を諫めたもの
ろ)新井白石が、6代家宣に建言したもの
は)尾張藩主徳川宗春が、8代吉宗の政治を批判したもの
に)大御所吉宗が、9代家重に言い置いたもの
これは、第4回【62】の問題と同じ問題です。