平賀源①-その活躍内容(江戸検お得情報8)
前回は、「江戸時代の科学者たち」が江戸検1級問題にしばしば出題されると書きました。
その中で、実は最も重要な科学者が欠けています、その最も重要な科学者とは「平賀源内」です。
朝日新聞社が「過去1000年間の日本でもっとも傑出したと思われる科学者は誰か?」というアンケートをした際、1位が野口英世、2位が湯川秀樹で、3位が平賀源内だったそうです。(「平賀源内を歩く」奥村正二著より)

このように、現代の多くの人が、平賀源内は科学者だと思っています。
この平賀源内が、江戸検1級問題でも、第2回で2問、第3回、第6回。第8回、第11回としばしば出題されています。
平賀源内については、『江戸博覧強記』でも触れていますが、『江戸博覧強記』では、本草学者としての平賀源内を中心に触れられています。
しかし、平賀源内は、マルチ人間で、多彩な分野で活躍していました。そのため、『江戸博覧強記』だけを勉強していると第2回の次のような問題では正解はわかりません。
【29】平賀源内は、福内鬼外のペンネームで人形浄瑠璃の作品をいくつか書きました。「琥珀の塵や磁石の針」という、科学の知識を織り込んだ源内らしい文辞で知られ、現在も歌舞伎や文楽で上演されている作品は何でしよう?
い)『仮名手本忠臣蔵』 ろ)『伊賀越乗掛合羽』
は)『神霊矢ロ渡』 に)『伊達競阿波国劇場』
そこで、今日は、「平賀源内を歩く」や講談社選書メチエ「本草学者 平賀源内」(土井康弘著)を参考に、平賀源内がどんな活躍をしたか書いていきます。

1、本草学者としての活躍
①本草学者田村藍水に師事し、宝暦7年(1757)、田村藍水とともに湯島で日本初の物産会(現在の博覧会)を開きました。
②以後、6年間に物産会を5回開催し、とくに宝暦12年(1762)の第5回物産会には全国30余国から1300余点に上る展示物を大変な盛況でした。
③源内はこの物産会の出品物のなかから重要なもの360種を選んで分類、解説し『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(6巻)を翌年に出版しました。
2、諸々の器械の製作
①源内は、秩父の中津川で石綿を発見し、明和元年(1764)、これによって火浣布(かかんぷ:石綿などでつくった不燃布)を製作しました。火浣布の「浣」とは洗うという意味で、その布についた汚れが火の中に投げ込むと洗ったように真っ白になることから付けられた名称のようです。源内が作ったものは数センチ程度の小さなものだったようです。(ブラウンは4月11日追記したものです。以下同様)
②量程器(今の万歩計)、磁針器(方角を測る道具)、平線儀(水平を出す道具)を平線儀(水準儀)、タルモメイトル(温度計)を製作しています。
③安永5年(1776)、長崎で入手したエレキテル(摩擦起電器)の修理に成功し評判となりました。
3、戯作者・浄瑠璃作家としての活躍
①宝暦13年(1763)に、浅草奥山で評判を呼んでいた講釈師深井志道軒を主人公にした『風流志道軒伝』を出版しました。
②また同じ年に『根南志具佐(ねなしぐさ)』を出版しています。
③明和7年(1770)には、福内鬼外(ふくうちきがい)の名前で浄瑠璃『神霊矢口渡』の台本を書き、江戸薩摩座で上演され評判となりました。
4、画家としての活躍
①源内は明和7年(1770)に二度目の長崎遊学に向かいますが、その長崎遊学の頃に西洋風油絵「西洋婦人図」を描いたといわれています。
②源内は安永2年(1773)、鉱山指導のため秋田に向かい、角館で小田野直武を知り、源内は直武に、陰影法や遠近法などの洋画法の知識を与えました。直武は、秋田藩主佐竹義敦(曙山)、秋田藩角館城代佐竹義躬にこの洋画法を伝えました。彼らによって展開された絵画が秋田蘭画とよばれています。また、江戸に出府した直武は杉田玄白とも交流し、安永3年に「解体新書」の挿絵を描いたことは有名です。
5、鉱山家としての活躍
①秩父鉱山の開発を企図し、宝暦14年(1764)秩父中津川村山中で石綿を発見しました。
源内は、秩父で金の採掘に挑戦し、その後には鉄山の開発を手がけます。秩父市中津川には、源内が建てた「源内居」という建物が残されています。しかし、その後、源内による鉱山開発事業は挫折しています。
②安永2年(1773)秋田藩の要請により、鉱山の調査・指導のため秋田に向かい、院内銀山、阿仁銅山などで指導しています。
③「平賀源内を歩く」によると、陸奥国和歌郡仙人山で亜鉛を発見し採掘を始めましたが、これが日本最初の亜鉛発見だったそうです。
6、陶芸まで手を染めている
①源内は、生まれ故郷志度で甥の堺屋源吾などに陶器製作を指導伝授しました。これが源内焼と呼ばれています。
②源内は、天草深江村の土が製陶に適しているのに気づき、時の幕府天草代官に『陶器工夫書』を提出しましたが、これは取り上げられませんでした。
7、小物類の考案・製作
①源内は故郷志度で緬羊を飼育させ、明和8年(1771)毛織物の羅紗(らしゃ)の製造に成功し、それを「国倫織(くにともおり)」と名付けています。国倫とは源内の本名です。
②伽羅の木を使い歯の部分に象牙を使用した源内櫛を考案・製作しました。吉原の遊女に利用させたりして高価でした結構売れたといいます。
③源内は金唐革紙も考案しています。金唐革は革に金銀あるいは錫の箔を貼り付け、彫刻を施した型を押しつけて美しい文様を浮き出させたものでヨーロッパでは城館の壁や天井に使われていました。日本では煙草入れなどに利用されていましたが高価なものであったため、源内は革の代わりに和紙を使い、庶民向けの安価なもの考案したといいます。

