平賀源内②-その交友関係(江戸検お得情報9)
今日は平賀源内の2回目として、平賀源内の交友関係について書いていきます。
平賀源内はマルチ人間であったため、その交友関係は幅広いものがあります。
その中には、かなり有名な人たちがいます。今日はそんな源内の交友関係の中で有名な人たちに限って紹介します。
1、源内の上司・師
①松平頼恭(よりたか)
松平頼恭は高松藩主、つまり、平賀源内が仕えたお殿様です。源内の父は藩の御蔵番という下級家臣でしたが、平賀源内を登用し長崎に遊学させるなど源内を支援しました。頼恭は、博物学者としても一流で、魚譜『衆鱗図』,禽譜『衆禽画帖』,草木譜『衆芳画譜』などを編纂させました。
②田村藍水(元雄)
田村藍水は、江戸に出た源内が師事した本草学者です。薬用人参の研究で注目され,幕府医官に登用されて日光で朝鮮人参栽培を試みました。宝暦7年(1757)に湯島で国内最初の物産会(薬品会)を主催しました。また、多くの弟子たちがいました。後述する中川淳庵も弟子の一人です。
③田沼意次
9代将軍徳川家重、10代将軍家治のもとで,小姓から側用人,老中となり、宝暦8年遠江国相良(さがら)藩主となり、いわゆる田沼政治を主導した幕府の実力者。源内が直接お目見えしたかどうかわからないが、田沼意次は源内を高く評価していたようです。
④千賀道隆(せんがどうりゅう)千賀道有(どうゆう)
平賀源内は、安永8年(1779)に殺人事件を起こし小伝馬町牢屋敷に投獄されます。そして牢屋敷内で病死します。
そして、橋場の総泉寺に埋葬されます。この総泉寺は千賀道隆・道有の菩提寺でした。
千賀道隆・道有は田沼意次と親しいうえ、源内とも親しい関係です。
源内の死亡の経緯や源内が埋葬された総泉寺については次回書きます。
2、源内の仲間
①中川淳庵
中川淳庵は、解体新書の翻訳作業に参加した人物として名が知られています。
淳庵は、若い頃から本草学に興味をもち、田村藍水に学びました。つまり源内と同門ということになります。
平賀源内が火浣布を制作する際の協力者でした。また、源内がまとめた『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』の校訂者でもあります。
②杉田玄白
杉田玄白は、「解体新書」を刊行したことで大変有名です。この杉田玄白は源内の親友で、源内が亡くなった際に、「ああ、非常の人、非常のことを好み」から始める有名な墓碑銘を書いています。
この墓碑銘のことは、江戸検1級の第2回の記述問題として次のように出題されています。
【100】「ああ、非常の人、非常のことを好み、行いはこれ非常、何ぞ非常に死するや」これは、杉田玄白が書いたある人物の墓碑銘の文章です。では、玄白の友人の本草学者で、火浣布やタルモメイトルを制作し、浄瑠璃作家としては福内鬼外(ふくちきがい)などのペンネームでも知られるこの人物は誰でしよう?名前を漢字4文字で書いてください。
杉田玄白と知り合いになったのは、田村藍水の下で一緒に学んだ中川淳庵の紹介によるものといわれています。杉田玄白と中川淳庵はともに小浜藩医でした。中川淳庵の方が後輩となります。
③桂川甫三(ほさん)・甫周(ほしゅう)
桂川甫三は、代々将軍家の奥医師を務める家柄で、甫三(国訓)は、寛延元年(1748)将軍徳川家重に拝謁し、その後奥医師となり、法眼まで進んでいます。
明和元年(1764)源内が書いた『火浣布(かかんぷ)略説』(火浣布の解説書)の序文を執筆しています。
桂川甫周は甫三(国訓)の長男です。名を国瑞(くにあきら)、杉田玄白等と「解体新書」を翻訳したことで有名です。その桂川甫周も源内と交流があったそうです。
④森島中良
森島中良は、桂川甫三(国訓(くにのり))の次男で、桂川甫周(国瑞(くにあきら))の弟です。蘭学者ですが、源内に弟子入りし、戯作も書き、2世風来山人と名乗りました。
3、源内の教え子
①小田野直武
小田野直武は、秋田藩士で、安永2年(1773)に秋田藩の要請で阿仁銅山の検分に招かれた平賀源内にその画才を認められ,西洋画法を教えてもらいました。
その年に、藩主佐竹曙山の命で銅山方産物吟味役として江戸詰となり洋風画を研究し、藩主の佐竹曙山や角館城代佐竹義躬に伝え、秋田蘭画を開きました。
江戸出府の翌年の安永3年(1774)杉田玄白らの『解体新書』の挿絵を描き、晩年には司馬江漢も指導しました。しかし、安永8年突然謹慎を命じられて、秋田に帰郷し角館でなくなっています。
②大田南畝
太田南畝は説明するまでもないほどの有名人ですが、源内とも深い関係があります。
太田南畝の第一作は『寝惚先生文集』です。この序文を平賀源内が書いています。この時19歳で平賀源内は40歳で、親子ほどの年齢の差があります。
二人が知り合ったきっかけは、人物叢書「太田南畝」によると平賀源内宅に寄寓していた太田南畝の友人を訪ねていったことから源内と南畝の交流が始まりました。そして、南畝の第2作となる「売飴(あめうり)土平伝」の序文も源内が書いています。
③司馬江漢
司馬江漢は、本名安藤吉次郎と言いました。司馬姓は早くから芝新銭座に居住したことに由来するといいます。少年時代に狩野派を学んだのち、鈴木春信の弟子となり鈴木春重の名を与えられ浮世絵を描きました。
安永年間に平賀源内と出会い洋風画に興味をもち小田野直武に洋風画法を学び、天明3年(1783)、大槻玄沢の協力を得て日本最初のエッチング(腐食銅版画)「三囲(みめぐり)景図」を制作しました。
また、このころから西洋自然科学の普及に努め、『地球全図略説』『和蘭天説』などを著して万国地理や地動説を紹介しました。
以 上

