平賀源内③-その死(江戸検お得情報10)
江戸検1級にしばしば出題されている平賀源内について書き始めたら量が多くなり3回目となりますが、今日は、源内の死について書いていきます。下写真は平賀源内のお墓です。

平賀源内が亡くなったのは 安永8年(1779)12月18日 で享年52歳でした。
平賀源内の死因については、諸説がありますが、殺人事件を起こし、小伝馬町牢屋敷に投獄され、獄中で破傷風にかかり死亡したという説が有名です。
源内は、安永8年の夏に神田橋本町の貸金業神山検校が住んでいた凶宅に引っ越します。そして11月に源内は自宅で殺人を犯してしまいます。
源内が、なぜ殺人を犯したかについて、講談社選書メチエ『本草学者平賀源内』(土井康弘著)には、最有力視されている高松藩家老木村黙老の『聞まゝの記』に記されている内容が紹介されています。
『本草学者平賀源内』にそって概要を書くと次のようになります。
ある大名の泉水工事の請負の見積もりを平賀源内にさせてみると、既に決定している施工者のものより相当安いものでした。
そこで、施工を源内に任そうとする話が出てきて、若干の悶着があったのち、源内と元の町人とが協同で請け負うことで決着し、和解のしるしとして源内宅で役人と町人を交えた酒宴が設けられました。
その席で、源内は、自分の立てた設計と見積書類を見せて説明し、相手も納得しました。そこで、源内は町人と二人で飲み明かすことになり、二人は泥酔して寝てしまいました。
源内が、朝方起きると昨夜見せた書類がありません。そこで、町人を起こし追及しますが、取った覚えのない町人は否定するだけでした。しかし、あまりに源内がしつこかったので、町人は、「もし盗んで隠すようなものなら、問われても答えるか!盗ったとすればどうする!」と源内を挑発するような言葉を発します。
この言葉に激高した源内は刀で切りかり、深手をおわせました。深手を負った町人はそのまま逃げていきましたが、源内はいずれ町人は死んで自分に咎が及ぶであろうと考え身辺整理をしていると、盗まれたと思っていた書類が出てきます。
源内が自責の念にかられ切腹しようとしたとき、かけつけた門人などがこれを止めさせ、源内は小伝馬町の牢屋敷につながれることになり、判決がでる前に、破傷風により安永8年(1779)12月18日、小伝馬町牢屋敷で亡くなりました。
亡くなった源内の遺体は、橋場の総泉寺に埋葬されました。
総泉寺は、昭和3年に板橋区小豆沢に移転しましたが、源内の墓だけは板橋に移転せず元の総泉寺に残されました。
源内の墓の周りには築地塀が整備されています(下写真)

この築地塀は、昭和6年に松平頼壽(よりなが:旧高松藩松平家12代当主、貴族院議長、本郷学園創立者)により整備されたものです。
源内が埋葬された総泉寺は千賀道隆・道有父子の菩提寺でした。千賀家と源内は非常に親しい関係にありました。
千賀道有の父道隆は、田沼意次がまだ地位の低かった時代から田沼家へ出入りして田沼の信任を得るようになりました。息子の道有も田沼意次の信頼を得て、当初伝馬町で入牢者の診療にあたっていましたが、幕府の奥医師にまでのぼりつめました。また、田沼意次が側室(もと揚弓場の女)を迎えたとき、道有は乞われて彼女の仮親となっていると『平賀源内の研究』(城福勇著創元社刊)に書いてあるそうです。
このように田沼意次と関係がある千賀道隆・道有父子と源内の関係は非常に深いもので、源内が江戸に出府した際に、最初に投宿したのは千賀道隆の屋敷でした。その後、源内が2回目の長崎遊学で江戸を留守にしている際に、神田白壁町の自宅が目黒行人坂の大火で焼失してしまいました。遊学を終えて江戸に帰京した源内が住んだのが千賀道有の屋敷でした。
このように千賀家と関係が深いことから源内は千賀家の菩提寺の総泉寺に埋葬されたのでしょう。
平賀源内のお墓は上段の角石に「平賀源内墓」、下段の角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士」と刻まれています。(下写真)

平賀源内は殺人を犯した罪人でした。そのため源内の遺骸は遺族に渡されず総泉寺の墓には埋葬されていないという説と遺骸は親族らに引き渡されて総泉寺の墓には埋葬されているという説があります。
杉田玄白が書いた「処士鳩渓墓碑銘」は「ああ、非常の人、非常のことを好み、行いはこれ非常、何ぞ非常に死するや」という言葉で有名ですが、それには、身の回りのもののみを葬ったと書かれています。
一方、太田南畝の「一話一言」巻之二平賀鳩渓の項には「屍を従弟某に賦ふ」と書いてあり遺骸が従弟に渡されたとしています。(最下段参照)
昭和3年に総泉寺が板橋に移転するにあたって源内の墓地を発掘した際に遺骨が発見されたことから、遺骸は総泉寺に埋葬されたと考えられています。
源内の墓は、太田南畝の「一話一言」によれば杉田玄白が建てたものとされています。(最下段参照)
杉田玄白の書いた墓碑銘は「ああ、非常の人、非常のことを好み、行いはこれ非常、何ぞ非常に死するや」で大変有名です。しかし、源内の墓には杉田玄白の墓碑銘は書かれていません。
現在は、源内の墓の近くに建てられている「平賀源内先生墓域修築之碑」(下写真)の裏面に書いてあります。

この碑は、昭和5年に建立されたものです。ちなみに玄白の墓碑銘は全文漢文です。
それでは、杉田玄白が書いた墓碑銘はどうなっていたのか疑問に思い調べてみました。
その結果、「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧のできる「墓碑史蹟研究. 第9巻」(磯ケ谷紫江 著)の1615ページに「杉田玄白先生墓誌は当時、草稿のままで、石に刻んだのではない。」と書いてありました。
この説明によれば、玄白が記した墓碑銘を刻んだ碑は江戸時代には建立されていなかったということになります。
【参考】 大田南畝「一話一言」巻之二『平賀鳩渓 ※鳩溪とは源内の号のこと』
平賀源内名は国倫、字は士彝、鳩溪と号す、狂名は風來山人、又天竺浪人と号す、讃州志度浦の人也、宝暦の末始て江戸に来りて聖堂に寓居す、官医田村元雄とともに物産の学を勤む、火浣布を考へ出して、御勘定行-色安芸守 につきて公に獻り上覧に入る、後神田白壁町の裏に住居す、又藤十郎新道に移り(この頃門口に柳を一もと植置けり)終に馬喰町の町屋に移る(一検校の住し凶宅なり)明和七年庚寅の頃長崎に赴く、大通詞吉雄幸左術門が家を主とす、阿蘭陀本草を学びエレキテルセイリテイトといへる奇器をつくる事を学び得て帰り専ら蠻学をなす、我は伽羅の櫛(銀むね象牙の歯 月に郭公などの細工あり)或いは金から革等を作りてつねの産とす、安永八年己亥十一月廿日の夜病狂喪心して人を殺し獄に下る、同十ニ月十八日病て獄中に死す、屍を從弟某に賦ふ、橋場總泉寺門内左に葬る、共友杉田玄伯私財を以て墓碑をたてて表とす(後略)
赤印が平賀源内の墓です。