天下三名槍 (江戸検お得情報13)
前回は、天下五剣について書きました。天下五剣というのは名刀中の名刀たる刀を言います。
こうしたものは槍の中にもあります。それが天下三名槍(てんかさんめいそう)です。そこで、今日は天下三名槍について書いていきます。
天下三名槍は、日本号(にほんごう、ひのもとごう)、蜻蛉切(とんぼきり)そして、御手杵(おてぎね)の三本の槍をいいます。
天下三名槍① 『日本号(にほんごう、もしくは、ひのもとごう)』
「日本号(にほんごう、もしくは、ひのもとごう)」は、全長321.5cm、総重量2.8kg、樋(刃中央の溝様の部分)に倶梨伽羅龍の浮彫が施されています。
無銘であり公式には作者不明ですが、大和の金房(かなぼう)派の作であろうと推定されています。
この「日本号」は、もともとは御物(皇室の所有物)で、素晴しい槍であるため槍でありながら正三位の位を授けられたという伝承があります。
正親町天皇より室町幕府の15代将軍である足利義昭に下賜され、さらに、織田信長を経て豊臣秀吉に渡りました。
その後、秀吉から拝領した福島正則が所持していましたが、福島正則から母里太兵衛(ぼりたへえ もしくは もりたへえ)へ譲られました。
母里太兵衛は、黒田如水・黒田長政に仕えた黒田家の重臣で、黒田二十四騎の一人に数えられています。
母里太兵衛が福島正則の屋敷に黒田長政の名代として挨拶に訪問したところ、福島正則から酒をすすめられました。母里太兵衛は大の酒豪でしたが、出かける前に黒田長政から酒を飲むことを禁じられていたため、福島正則のすすめをことわりました。しかし、福島正則は、「この酒を飲み干せば好きな物を褒美にとらせるぞ」と言って無理強いをしました。
断り切れなくなった母里太兵衛は、やむえず、すすめられた大杯一杯の酒をすべて飲み干してみせました。
こうして酒を飲み干した母里太兵衛は、約束通り『日本号』を手に入れることとなりました。
このことから、「日本号」は、別名「呑み取りの槍」ともいわれます。
この伝承は広く知られ、現在でも次の歌詞の民謡『黒田節』として歌われています。
酒は呑め呑め 呑むならば
日本一(ひのもといち)の この槍を
呑み取るほどに 呑むならば
これぞ真の 黒田武士
この名槍は代々母里家で大正時代まで保存されていましたが、大正時代に母里家から手放され他家へ移りましたが、やがて、旧福岡藩主の黒田家に贈られ黒田家が所蔵していました。
そして、昭和53年、黒田家より福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館の所蔵品として常時展示されています。
天下三名槍② 『蜻蛉切(とんぼきり)』
「蜻蛉切」は、徳川四天王のひとり、本多忠勝が所持していた名槍です。
「蜻蛉切」という名前は、忠勝が戦場で槍を立てていたところ、たまたま飛んできた蜻蛉が穂先にあたると蜻蛉は2つに切れてしまったことから名づけられたと言われています。
蜻蛉切を鍛えたのは、三河文殊派の刀工藤原正真(まさざね)です。
本多忠勝の死後は、子孫である本多家に伝来した蜻蛉切ですが、戦後になると本多家から静岡県沼津の実業家の手に渡り、現在は静岡県三島市の佐野美術館へ寄託されています。
以前、岡崎城内にある「三河武士のやかた家康館」を訪ねた際に、「蜻蛉切」のレプリカが展示されていました。(下写真)この展示の説明には、蜻蛉切は徳川家康から拝領したものと書いてありました。
本多忠勝の「蜻蛉切」のレプリカが岡崎にあるのは、本多忠勝の子孫の本多忠粛が明和6年(1769)に岡崎藩主となってから明治維新まで本多家が岡崎藩主であったからだと思います。
天下三名槍③ 『御手杵(おてぎね)の槍』
「御手杵(おてぎね)の槍」は、戦国時代に下総国結城の大名結城晴朝が島田宿の名工義助に作らせた槍で、刃渡り約140センチで、柄を含めた全長は約380センチの非常に大きな槍です。
御手杵という名前は、槍の鞘(さや)が手杵の形をしていたことに由来します。
手杵というのは、丸い太い棒の中央のくびれた部分を握ってつく杵をいい、十五夜の季節に月でうさぎが餅をついている絵に出てくることがあります。
また、結城晴朝が、ある戦場で挙げた敵の首級をこの槍に通し担いで帰城する途中で、中央の首級が落ち、その時担いだ槍の姿が手杵の様に見えたので、「御手杵」の名がついたともいいます。
「御手杵(おてぎね)の槍」は、結城晴朝から、養子の結城秀康に伝わります。
徳川家康の次男として生まれ結城秀康は、豊臣秀吉の養子となり、さらに結城晴朝の養子となり結城家を継いでいました。
関ヶ原の戦い後、結城秀康は越前67万石に封じられ、秀康の五男直基が結城氏の名跡を継いだため、「御手杵の槍」は、松平直基に伝わりました。
松平直元基は、松平大和守家の初代ですので、それ以降松平大和守家が受け継いできました。
こうして、松平大和守家に伝わった「御手杵の槍」は、昭和20年の東京大空襲によって、東京の大久保にあった松平邸が焼失した際に、蔵に保存してあった「御手杵の槍」も焼失してしまいました。
以前、川越市にある川越城本丸御殿を訪ねた際に、川越城の本丸御殿には、「御手杵の槍」の槍鞘が展示されていました。(下写真)
松平大和守家が川越藩主であったことから、本丸御殿に「御手杵の槍」の槍鞘が展示されているようです。