蒲原・由井(広重『東海道五十三次』6)
広重『東海道五十三次』は、これまで1回につき3宿づつ書いてきましたが、今回からは2宿づつ書いていきます。今日は、蒲原と由井について書いていきます。
16、蒲原(夜之雪)
蒲原の絵は、広重『東海道五十三次』の中の代表作の一つで、「庄野」とともに、保永堂版の中で双璧ともいえるほどの作品で、ご存じの方が多いと思います。
副題の「夜之雪」の通り、蒲原宿にしんしんと降り続く夜の雪を描いています。
中央の宿場の家並も、中景の森の木々、遠景の山も墨の濃淡のみのモノトーンで描かれていて、それにより静寂を描き出しているのは見事としかいいようがありません。
ほとんど墨の濃淡のみのモノトーンの中で、わずかに色が付けられているのが雪の中を踏みしめて歩く3人です。
降り続く雪の中を蓑笠をかぶった2人の人物は雪の坂を登っていきます。そのうちの一人はうつむきかげんでしっかり足元を見つめて歩いています。一方、左には傘を半分つぼめて下駄をはいた人物が坂を下っていますが、その姿から按摩という解説をしたものもあります。
山も木々も宿場町もひっそりと寝静まりかえる中で、3人の雪道を踏みしめる足音が聞こえてくるようです。そして、坂を下る人物が按摩であれば降る雪の中に按摩笛の音が響いているのでしょう。
この作品は、広重が作り出した虚構の風景だという説明をした本があります。
その解説を読むと、蒲原は豪雪地帯ではなく、温暖な地なので、雪が降り積もるようなことはない。そのため、この絵は「広重のつくりだした虚構の世界」(「広重と歩こう東海道五十三次」)または「画家が生み出したフィクションである」(「カラー版徹底図解 東海道五十三次」)と考えられているようです。
現代の感覚であれば、温暖な地である蒲原にこんな大雪が降ることはありませんので、その考えによれば、この絵は広重が勝手に想像した絵だという考え方もあっておかしくないと思います。
しかし、私は、蒲原で大雪が降ることはあり得ない話ではないと思います。
というのは、現在の感覚で考えると蒲原で大雪が降るとは考えにくいのですが、江戸時代260年の間には、現在よりずっと寒い時期があったからです。
中公文庫「江戸晴雨攷」(根本順吉著)によると、18世紀半ばから19世紀半ばまでは、小氷期と言われた時代で、隅田川が氷結したことがあると書いてあります。隅田川が氷結するというのは、現在では全く想像できません。その頃は相当寒かったと考えられます。
根本氏が引用している「武江年表」は江戸の神田雉子町の名主をしていた斎藤月岑がまとめたもので、江戸時代におきた出来事が年ごとにまとめられています。
その「武江年表」(中公文庫)をみると安永3年(1774)10月22日の項目に 「この冬、寒気強く、両国川(隅田川のこと:ブログ管理人コメント)氷(こお)りて、巳刻(午前10時ごろ:ブログ管理人コメント)まで舟の往来絶えしことあり。駿河は暖国なるにより、氷は6~70年も見し人なかりしに、今年は御城(駿府城のことと思う:ブログ管理人コメント)外、氷とぢたりとなむ。」と書いてあります。
つまり、駿河は温暖な国なので60~70年の間、氷がはるということなど見たことがなかったが、安永3年には駿府城のお堀が凍ったということが書かれています。
安永年間(1772~1781)は、広重が『東海道五十三次』を描いた天保4年~5年(1833~1834)から5、60年ほど前のですが、その頃、駿河でも相当寒いことがあったようです。
また、天保年間より少し前の文化文政年間(1804~1830)には、江戸でも大雪がしばしば降ったことが「武江年表」(中公文庫)に記されています。
例えば、文化12年(1815)の正月元旦や2日には江戸で2尺(60センチ程度)の積雪があり、文政2年(1819)正月21日には1尺2,3寸(35センチ~40センチ程度)の積雪があったと書いてあります。
こうしたことから、広重が、直接蒲原での大雪を経験したかどうかはわかりませんが、駿河で大雪が降ったことを知っていた可能性はあるとのではないでしょうか。
ですから、この絵を蒲原でありえない大雪を広重が勝手に想像して描いた絵とする説明には少し疑問を感じています。
17、由井(薩埵嶺)
由比宿のあった由比町は、平成の大合併により現在は静岡市清水区の一部となっています。ちなみに蒲原宿があった蒲原町も現在は静岡市清水区の一部です。
由比は、現在では、「由比」と書かれます。しかし、広重『東海道五十三次』では、「由井」となっています。広重は、保永堂版に限らず、ほかの東海道の揃物(そろいもの)でも「由井」と書いているそうです。
副題にある薩埵嶺とは、薩埵山のことで、古くは磐城山と呼ばれていましたが、鎌倉時代に由比の浜で網にかかった地蔵菩薩(薩埵地蔵)を祀ったことから薩埵山と呼ばれるようになりました。
ここを通る峠が有名な薩埵峠で、由比宿を出て興津宿へ向かう途中にあります。
薩埵峠は、 東の箱根峠、西の鈴鹿峠とともに東海道でも指折りの難所の一つとされていました。江戸時代初期には、東海道は、山を越える道でなく、波打ち際を通っていました。旅人は打ち寄せる波の間を縫って抜けていく危険な道しかなく、親も子も関係なく我先に渡ることから「親知らず子知らず」と言われました。
これが下道と呼ばれました。
この危険な道を避けて中腹を通る道が開かれたのは、明暦元年(1655)のことで、朝鮮通信使を迎えるためでした。この峠越えの道が中道と呼ばれ、さらに山寄りの上道も開かれました。
この薩埵峠も決して楽なルートではありませんでしたが、このルートからは眼下に紺碧の海が見え、見上げれば富士山が見えるというと絶景で、東海道有数の眺めの良い場所でした。
この絵の正面奥には真白な富士山、中央に左から右にかけて駿河湾が広がっています。中央下の岩の形はするどくとがり、その上に生える二本の松は海からの強い風のせいか陸側に大きく傾きながらも、枝を南に伸ばしています。
画面の左上隅から右下隅にかけて対角線構図で、岩や崖が描かれているのも、この絵の特徴です。
薩埵峠は眺めの良い場所でしたが、広重の絵でも、画面左には垂直に切り立った断崖絶壁の道から絶景の眺めを楽しむ2人組の旅人の姿が描かれています。一人はこわごわと手をかざして彼方を眺め渡しています。崖越しに富士山を見ているのでしょうか。
その二人連れの脇で地元の人が薪を背負っているのも見落とせません。
旅人と地元民との対象も絶妙といえます。
【5月23日追記】
「田子の浦に うち出でてみれば 白妙(しろたへ)の
富士の高嶺に 雪は降りつつ」
この和歌は、万葉歌人の山部赤人が詠んだもので、「小倉百人一首」のうちの代表的な一首ですので、一度は聞いたことがある人が多いと思います。
現在の田子の浦は、由比より東の富士市にありますが、山部赤人が詠んだのは、薩埵峠の麓の海岸辺りだったともいわれています。
山部赤人が上方から東国に下るため、薩埵山の麓の海岸を通っていた際、薩埵山の断崖の向こうに突然富士山が現れた時の感動を詠んだと言われています。
下写真は、薩埵峠から見た富士山です。まさに絶景ですが、海岸からみると富士山がもっと大きく見上げるように見えたことでしょう。山辺赤人が感動するのも当然と思います。
さて、現在は由比と蒲原の間を通行するためには、薩埵峠を通らず、海岸近くを通る東海道線や国道が利用されています。下の写真の一番左が東海道線、次いで富士由比バイパス(国道一号線)、海寄りが東名高速道路です。
海岸近くに、こんなに土地があるのであれば、なんで難所と言われる薩埵峠などを通る必要があったのかという疑問が生じました。そこで、少し調べてみると次のことがわかりました。
実は、現在、東海道線や国道一号線が通過している土地は、幕末の安政元年(1854)に起きた安政大地震の際に隆起した土地でした。
従って、江戸時代以前は、海岸近くには土地がないため、薩埵峠を通行せざるをえなかったわけです。