府中・鞠子(広重『東海道五十三次』8)
広重『東海道五十三次』、今日は府中と鞠子について書いていきます。
府中がちょうど20枚目となります。
20、府中(安部川)
府中宿は、現在のJR東海道線の静岡駅の北側、駿府城の近くにありました。
府中という地名は、律令時代の国府の所在地を指す一般名称でした。そのため府中という地名は日本各地にありました。現在でも、東京都府中市、広島県府中市、広島県安芸郡府中町があります。東京の府中市は武蔵国の国府があり、広島県府中市は備後国の国府があり、広島県安芸郡府中町は安芸国の国府がありました。また、山梨県甲府市は、甲斐国の府中ということであり、山口県防府市は周防国の府中ということです。
東海道の府中宿は、駿河国の国府があった場所でしたので、駿府とも呼ばれ、そちらのほうが有名です。
駿府から現在の静岡に名前が変わったのは、明治2年のことです。
明治新政府から府中という地名の変更を命じられた駿府藩では、駿府城の北にある賤機山(しずはたやま;標高171m)にちなみ賤ヶ丘(しずがおか)という名前にすることにしました。しかし、賤という字を静に変えた「静岡」がよいという意見が出され、現在の「静岡」という地名となりました。
さて、前置きが長くなりましたが、広重は、府中の絵は、府中宿の宿場を描くのではなく、副題「安倍川」の通り、安倍川の川渡しを描いています。
この絵は、画面を上下に分けた構図となっていますが、画面下方で大きな部分を占めて描かれている川が安倍川です。
安倍川も酒匂(さかわ)川や大井川などと同様に徒行(かち)渡しで、こちらから対岸へ向かう女性は川越(かわごし)人足の担う輦台(れんだい)や人足の肩車によって川を渡っています。また、対岸からは馬の背に荷を載せた男たちが渡ってきます。その隣で対岸から渡ってくる男性は状箱を濡らさないように頭上に高くささげて渡っています。これは多分飛脚でしょうが、客の荷物を頭に載せた人足に導かれながら徒歩で川を渡っています。
画面上部の安倍川の先に描かれている山については諸説があります。
その一つに静岡の地名のもととなった賤機山だとする説があります。その説に従えばこの絵は安倍川の西側から府中宿方面を描いた絵ということになります。
その一方で、安倍川の東から西の鞠子宿方面を描いたもので、対岸の山は鞠子宿近くの徳願寺山(標高352m)だという説もあります。
私は現地に行ったことがありませんが、Google Mapのストリートビューを見てみると、江戸時代の安倍川の渡し近くに架けられたという安倍川橋の東のたもとからみた徳願寺山に山容が似ているように思いました。

下の画像は、川渡しの部分を拡大したものです。
女性3人がそれぞれ異なる方法で川を渡っています。
最も手前の女性は人足の肩車で、最奥の女性は輦台に乗せられて渡り、真ん中の女性は駕籠ごと輦台に乗せられて渡っています。
右端の肩車され笠をかぶった男の半纏(はんてん)に、丸に「竹」の字が染め抜かれています。これは版元である保永堂こと竹内孫八の「竹」をあしらったものです。

府中の名物として第一に挙げられるものが「安倍川餅」です。慶長年間に 徳川家康が安倍川上流の笹山金山を視察した際に、ある男が砂金に見立てた黄粉餅(きなこもち)を献上しました。家康は、これを大変気に入り、餅の名前を尋ねました。献上した男は,「安倍川の金な粉餅と申します」と答えたという逸話があり、家康が、「安倍川餅」と命名したといわれます。
それ以来、安倍川近くの弥勒(みろく)地区には安倍川餅の店が多数並ぶようになりました。今でも、旧東海道が安倍川を渡る安倍川橋のたもとには、文化元年(1804)に創業した「石部屋(せきべや)」が、今も営業しています。
21、鞠子(名物茶店)
広重の東海道五十三次が広く人気を博した背景には、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛』が広く読まれ、旅行ブームが高まったことがあると説明したものがあります。
そして、『東海道中膝栗毛』を題材とした場面の設定がされたものがいくつかあり、そのひとつが、「名物茶店」の副題を持つこの「鞠子」であると説明されています。。
『東海道中膝栗毛』で、弥次さんと喜多さんは鞠子で名物のとろろ汁を注文する場面がでてきます。
この絵には、「名ぶつとろろ汁」や「御茶漬」「酒さかな」などの看板を出す藁葺きの店で、二人の旅人がとろろ汁らしきものを食べており、子供を背負った茶店の女が給仕をしています。
この光景は、『東海道中膝栗毛』で、主人公の弥次さんと喜多さんが鞠子の茶店でとろろ汁を注文する場面によく似ていますので、確かに、広重は、弥次さん・喜多さんをイメージして描いたのでしょう。
ただし、この絵では、旅人が酒を呑んだり、とろろ汁らしきものを食べていますが、『東海道中膝栗毛』では、茶店の夫婦が喧嘩を始めてしまったため、弥次さん・喜多さんは、とろろ汁を食べられませんでした。
この絵の副題ともなっている藁葺きの「名物茶店」のモデルとなったのが「丁子屋」です。丁子屋は、慶長元年(1596)創業の老舗で現在も鞠子で営業しています。ここの名物がとろろ汁です。
屋号に使用されている「丁子」とは香辛料の「クローブ」のことです。江戸時代にはその貴重さにあやかり、商売繁盛の願掛けを行う意味で屋号に「丁子」や「丁子屋」とつける店が多くあったそうです。
茶店の左には梅らしき木が描かれています。
芭蕉の句に「梅若菜丸子の宿のとろろ汁」という句がありますが、この絵は、その芭蕉の句を踏まえたものと考えられています。
しかし、この句は、芭蕉の弟子乙州が江戸に出発する際にはなむけの句として詠んだもので、鞠子で詠んだものではないそうですが、この句は有名だったので、その句を踏まえたのではないでしょうか。
梅の木の脇には、蓑と菅笠をさした棒を肩に担いだ農夫がのんびりと歩いていて、まさに早春ののどかな雰囲気も感じられます。

この絵で、宿場名が「鞠子」となっていますが、「鞠子」のほか「丸子」という表記もあります。広重の『東海道五十三次』の初刷りでは「丸子」となっていて、後刷りになると「鞠子」と表記されています。
当時刊行されていた道中案内の類では「鞠子」の表記が多かったので、それに合わせて変えたのだろうと推測した説明もあります。
また、丁子屋のホームページでは、「丸子」は「まるこ」と読み間違えてしまうので、誰もが読める「鞠子」を当てたのかもしれないと説明されていました。
ちなみに現在の住居表示は「丸子」です。

