岡部・藤枝(広重『東海道五十三次』9)
広重『東海道五十三次』、今回は、岡部と藤枝について書きます。
22、岡部(宇津之山)
岡部宿は、平成の大合併前までは岡部町でしたが、平成の大合併により、現在は藤枝市岡部町となっています。
鞠子宿と岡部宿の間は約2里ありますが、両宿の間にはこの絵の副題となっている「宇津の山」があり、そこを越える峠は宇津ノ谷(うつのや)峠と呼ばれ、東海道の難所の一つとでした。
宇津の山には、「伊勢物語』の「東下り」の段にでてくる「蔦の細道」という山道があることで有名です。伊勢物語に「行き行きて、駿河の国にいたりぬ。字津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり」と書かれているところから「蔦の細道」と呼ばれました。現代の私たちには伊勢物語はあまりなじみがありませんが、江戸時代の人々はよく知っていたようです。
しかし、蔦の細道と江戸時代の東海道は少し違ったルートをたどっていて、東海道は、豊臣秀吉が小田原征伐を行う際に、蔦の細道の近くに開いたものです。
広重が書いた絵には、両側から険しい山が描かれていて、その間の山裾に、細い流れとその脇を通る東海道が描かれています。絵の大部分を占める山は濃い草色で描かれていて昼なお暗い雰囲気が感じられます。
また、奥に描かれた山の山容を見ると険しさがよくわかります。
絵の手前側の急流沿いの道を薪を横に背負った女性らしき人物と旅人が描かれています。この二人が前傾みで歩いていますので、この坂はかなり急な坂であろうと思われます。それは、街道脇の清流が勢いよく流れていることからもわかります。
その先方には薪を縦にして背負った樵(きこり)が3人描かれています。最奥の樵は胸から上部が描かれていることから向こう側の坂もかなり急坂であることがわかります。向こう側の坂を下った先に岡部宿があります。
この絵を良く見ると渓流の脇に生えた楓(かえで)が紅葉しています。このことから秋の景として描かれているようです。
原典の伊勢物語の「東下り」の段では季節は夏となっていますが、蔦の細道を描く際には、蔦は秋になると赤く色つくということからか、秋の景として描かれるものがほとんどだそうです。広重も、それを踏襲して、秋の景として描いたものと考えられます。

23、藤枝(人馬継立)
江戸時代の宿場の重要な役目が人や荷物の運搬つまり前の宿場から送られてきた人や荷物を積み替えて次の宿場まで送る業務でした。これが継立を呼ばれました。
藤枝では、副題に「人馬継立」とあるように、問屋場で荷物を中継ぎして積み替える様子が描かれています。
そのため、この絵は、宿場の役割など解説する際に挿絵としてしばしば使用されていますので、見たことのある人もいると思います。

広重は、藤枝宿の問屋場での人馬継立の様子を非常に丁寧に描いています。
画面右端の一段高いところには問屋場の役人が作業を見まもっています。
その前で、笠をかぶり黒い羽織を着た武士と帳面を片手に持った人物がが荷物の確認をおこなっています。帳面を持った人物は、帳面を持った人物は、帳付(ちょうづけ)といって、人馬の出入などを記帳する問屋場の事務担当者です。
煙草をくゆらせたり、あるいは背中の汗をぬぐってくつろぐ人足は荷物を運んできた人足だと思いますが、それ以外の人足は荷物を下ろす作業をしているとも積む作業をしているともみることができて、どちらはっきりしません。
しかし、左の人足は、どうやら馬から荷物を下ろしているようです。その右手は、息杖で荷物をささえていますので、荷物を運ぶ準備ができた人足のようです。
この二人の人足が支えている中央の大きな荷物をよくみると、荷物の上に立てられた荷札には「保永堂」とかかれています。一方、左手前の馬の腹掛には「竹内」と書かれています。下の拡大画像をご覧ください。
広重『東海道五十三次』の出版は、主に保永堂(竹内孫八)が行ないました。絵の中に保永堂と竹内をいれこんで版元の宣伝をしているんですね。

【6月21日追記】田中城と藤枝宿
将軍を徳川秀忠に譲った徳川家康は、駿府城で暮らしていました。元和2年(1616)1月に徳川家康は大好きな鷹狩りに出かけ、田中城に立ち寄り、京の豪商茶屋四郎次郎のすすめにより、鯛の天ぷらを食べ、体調を崩し、これがもとで死亡したという説があります。
この田中城の城下を東海道が通っていて、田中城と藤枝宿はそれほど離れていない距離にあります。
藤枝というと東海道の宿場町と思われることが多いのですが、田中城の城下町という性格も併せ持っていました。
幕府が開かれてから田中藩の最初の藩主となった酒井忠利は、藤枝宿を田中城近くまで拡張しました。当初、藤枝宿には問屋場が1か所でしたが、酒井忠利は、田中城の大手口近くに問屋場を新たに設置し、藤枝宿の問屋場を2か所に増やしました。そして、京都寄りの問屋場は上伝馬、大手口近くの問屋場を下伝馬といって区別していました。下伝馬近くには、武家屋敷も配置され、藤枝宿は、次第に、田中城の城下町の性格も併せ持つようになりました。
田中藩の藩主は、短期間で目まぐるしく交代しましたが、享保 15 年(1730)に本多氏が4万石で入封してから藩主が固定して明治維新を迎えました。

