袋井・見附(広重『東海道五十三次』13)
広重『東海道五十三次』ですが、今日は袋井宿と見附宿について書いていきます。
袋井宿は、東海道五十三次の中で、江戸、京都のいずれから数えても27番目になります。つまり、東海道五十三次のちょうど真ん中の宿場町になります。
なお、距離の上では、見附宿と浜松宿の間の天竜川西岸が真ん中のようです。ちなみにその場所の地名は浜松市中ノ町となっています。ちょうど真ん中なので中ノ町というそうです。
28、袋井(出茶屋ノ図)
冒頭、袋井宿は27番目の宿場だと書きましたが、広重『東海道五十三次』では、スタート地点の日本橋が第1番になるので、ここでは28番目となります。
この絵の副題は「出茶屋ノ図」です。出茶屋というのは、宿場外れなどの道端に小屋掛けしてあって、旅人がしばし休憩する茶屋のことをいいます。
この絵で描かれている茶屋は、大きな広葉樹のもとに簡易な葦簀(よしず)がけで設けられています。木の後ろに榜示杭が立っているので宿場のはずれにある出茶屋であることがわかります。
石を積んだ竈(かまど)には大きな木の枝から釣り下げられた薬缶がかけられていて、手ぬぐいをかぶった茶屋の女性がやかんの湯を沸かしています。
女性の左の客は定紋が染められた腹掛けをした定飛脚(じようびきやく)の宰領と思われる人物です。右には二人の駕籠かき人足が休んでいますが、そのうちのひとりは竈の火で煙管を吸い付けていて、もうひとりは駕籠にもたれてうたた寝をしています。
こうした出茶屋でくつろぐ人が画面左手前に大きく描かれ、右手は遠景に小さく宿場の家並みとその周辺に広がる田園風景があり、左手前から右奥へと奥行きが感じられる構図になっています。
さらに良く見ると右手中央の立札には、羽根を休める小鳥の姿も描かれていて、実にのんびりとした風情をかもしだす絵となっています。

29、見附(天竜川図)
見附宿は、現在の磐田市にありました。見附という名前は、京から旅をしてきてここで初めて富士山を見ることができたため、「見附」の名前がついたと言われています。
見附宿は明治になって見付町となり、昭和15年に周辺の町村と合併し磐田町となり、戦後、市制が敷かれ磐田市となっています。
磐田市は、遠江(とおとうみ)国分寺・国府の所在地で、遠江国の中心地であった時代もあります。
この絵の副題は「天竜川図」となっていますが、天竜川は、諏訪湖を水源として、遠江国のほほ真ん中を貫流して遠州灘に注いでいます。
天竜川の川幅は東海道のあたりでおよそ10町(約1.09キロ)ほどあり、流れが急な東海道有数の大河です。川幅が広く流れが速いこともあって、天竜川は歩行渡しでなく、渡し船で川を渡りました。
天竜川には中洲があって大天竜、小天竜といわれる流れに二つの流れに分かれていました。
「東海道名所図会」には「川幅十町ばかり。一の瀬二の瀬の二流となる。船渡し也」と書いてあり、この二つの瀬を舟で渡ることを「二瀬越え」と呼んでいました。
広重も、画面手前の小天竜と中景に大天竜を描き、二瀬越えの様子を描いています。
画面手前で舟を停めて客を待つ二人の船頭が描かれていますが、そこを流れているのが小天竜です。中景に船が描かれていますが、そこを流れるのが大天竜です。
手前の小天竜を渡たり岸に着いた船の舳先(へさき)で、船頭がのんびりとして腰に手をやって煙管をくわえています。その隣の船頭は棹をたてて船底にしゃがんでいいます。船が二艘岸につけられているので、一人は隣の船の船頭でしょう。二人は、今乗せてきた旅人を見送っているのでしょうか?それとも世間話でもしているのでしょうか。
一方、中洲の先には渡し舟を待つ武士の一団や馬と馬子も描かれています。この一団が手前の二艘の船が渡したお客でしょうか。
大天竜には、客を乗せて漕ぎ出そうとしている舟と岸に着いたばかりの舟が描かれています。
大天竜のほうは、大勢の人々で賑わっていますが、手前の小天竜の方の二人の船頭はののんびりとしていて、非常に対照的な風情となっています。

「国立国会図書館ウエッブサイトから転載」

