浜松・舞坂(広重『東海道五十三次』14)
広重『東海道五十三次』、今日は、浜松宿と舞坂宿について書いていきます。
30、浜松(冬枯ノ図)
徳川家康が、浜松城に入城した時には引馬城と呼ばれていました。徳川家康が城主となってから、浜松城と呼ばれるようになりました。
徳川家康が、関東に転封となった後は、豊臣秀吉の家臣の堀尾吉晴が入りました。関ヶ原の戦いの後は、徳川家の譜代大名が城主となり、ここから老中に出世する大名も多かったので、「出世城」の異名があったともいわれています。
保永堂版が描かれた当時の城主は、老中の水野忠邦でした。
水野忠邦は、文政11年(1828)に 西丸老中となり、天保5年(1834)に本丸老中となりました。そして、天保12年からは天保の改革を実行しました。
この図では画面右方遠景に浜松城が描かれ、三層の天守らしき建物も描かれています。
しかし、広重は、城下町としてにぎわった浜松の宿場を描くのではなく、絵の副題に「冬枯ノ図」とある通り、宿場をはずれた東海道の冬の風俗を描いています。こうした題材の採り方は袋井宿と同じです。
絵の真ん中に真っすぐ伸びる大きな木が描かれ、その木の下で、ひとつの焚き火にあたって暖を取っている一団の人々が描かれています。寒空にもかかわらず下半身は褌(ふんどし)ひとつの半裸で火にあたっています。駕籠かき人足たちでしょうか。
木の右手でたき火のほうを振り返っている旅人は煙管の火をもらったのでしょうか。
その右の子供をおぶった女は、箒の柄を手にしていますので、焚き火のための枯れ葉を掃き集めているのではないでしょうか。

「国立国会図書館ウエッブサイトから転載」
絵の右部分を拡大した画像を見ると小さな立札が立っている松林が描かれています。
これは、「颯々松(ざざんざのまつ)」を描いたと考えられています。
「颯々松(ざざんざのまつ)」は、野口村(現・浜松市中区野口町)にあった松で、室町幕府の6代将軍足利義教(よしのり)が東国に下った折、「浜松の音はざざんざ」とうたって酒宴を催したという伝説が残る松林です。
ちなみに「ざざんざ」という言葉を辞書でひくと「松の梢 (こずえ) に吹く風の音を表す語」となっていました。
実際の「颯々松」は東海道から少し外れた場所にあったので、現実にはこの絵のように街道のすぐ脇に見えることはありませんでした。

「国立国会図書館ウエッブサイトから転載」
31、舞坂(今切真景)
舞坂宿は浜名湖の東岸にありました。平成17年以前は舞阪町でしたが、現在は、浜松市西区の一部になっています。なお、江戸時代は舞坂と表記されていましたが、現在は舞阪と表記されています。
浜名湖は、現在は日本有数の広さを誇る汽水湖ですが、室町時代までは細い砂州で海と隔てられた淡水湖でした。
室町時代の明応7年(1498)に起きた大地震の際の津波で海と隔てていた砂州が決壊して遠州灘とつながり、海水と混じり合う汽水湖となりました。明応の大地震によって生じた陸の切れ目が「今切(いまぎれ)口」で、この絵の副題となっています。
東海道は、今切口で陸が切れる前には砂州の上を通っていましたが、江戸時代には、切れ目の内側の湖面を新井宿までおよそ1里を舟で渡っていました。
画面手前に多くの杭が描かれています。これは、浜名湖が今切口で遠州灘とつながっているため波が高くなるため、船が安全に航行できるように波よけのために打ち込まれた杭です。
この湖面で漁をしている小舟ですが、 いったい何を捕っているのでしよう。
絵の遠景をよくみると画面右手に白く富士山が描かれています。このことから、広重は今切の渡しの西側で北側から東方向を描いていることがわかります。
湖面に大きく張り出している中央の山々は、現地には、こうした風景がないことから、諸説があるようです。
その中で、浜名湖に張り出した庄内半島だとする説があります。
庄内半島は、浜名湖の中に北側から突き出した半島状の陸地です。その右にある湖面は、浜名湖の付属湖の一つの庄内湖だと考えられます。
しかし、現実には庄内半島にはこの図のような高く険しい山はありません。広重が庄内半島を誇張して描いたものと考えられています。また、富士山の位置関係も実際とは違っていると思われます。

この絵の位置関係がわかるように現在の地図になりますが、地図を掲載しておきます。
赤印が庄内半島、ピンク印が浜名湖の付属湖である庄内湖、緑印が舞阪宿、青印が新井関所、オレンジ印が今切口です。

