荒井・白須賀(広重『東海道五十三次』15)
広重『東海道五十三次』、今日は、荒井と白須賀(しらすか)について解説します。
荒井は、現在は、「新居」と書かれます。江戸時代も「新居」とも「荒井」とも書かれたようですが、広重は「荒井」と書いています。また「東海道名所図会」でも「荒井」と書かれています。
荒井・白須賀(しらすか)ともに、現在は、静岡県湖西(こさい)市になっています。
荒井(渡舟ノ図)
前述のごとく、広重は「荒井」と表記していますが、現在では新居と表記しますので、これからは、「新居」と書いていきます。
新居には、箱根とならんで関所が置かれていたことで有名です。
新居関所は慶長5年(1600)に創設されました。全国53ヶ所の関所では、いわゆる「入鉄砲と出女」が厳しく取り締まられましたが、新居関所は江戸へ向かう女性(「入り女」)にも「手形」が必要で、不備が見つかれば通ることはできませんでした。
新居関所の面番所は、嘉永7年(1854)の地震で倒壊したあと、安政5年(1858)までに再建されたもので、国の特別史跡に指定されています。なお、新居関所は、日本国内で唯一現存する関所です。
舞坂宿から新居宿までは、約1里の舟渡しで、今切の渡しと呼ばれていました。この絵では、副題「舟渡ノ図」の通り、今切の渡しを大名行列を乗せた船が新居に向けて進んでいるところが描かれています。
先を進む大きな船は、幔幕を張り巡らせ、毛鎗や吹き流し、台傘、長柄傘などを立てていることから、お殿様が乗っている御座船だと思われます。
御座船に続く小舟に乗っている人々は着ている物の柄が同じですので、御座船に乗っているお殿様のお供の中間たちだと思われます。船頭2人は一生懸命舟を進めようとしていますが。乗っている中間たちは、多くが居眠りをしていますが、中には大きくのびをしているのもいます。
構図の面から見てみると、中間らの乗る小舟、御座船、対岸の陸地が対角線上に配置されて、舟の向きが見る人の視線を画面の奥へと引き込んでいってくれます。
御座舟の幔幕に染められた家紋は、丸に笹をあしらった紋になっています。ただ、私が調べた限りでは、丸に笹の家紋をもつ大名家はありませんでした。
そこで、御座舟に続く小舟の上に立つ旗には、よく見ると丸に「竹」と読めそうな紋が染め抜かれています。
御座船の笹の紋合わせて考えると広重の遊び心が隠されているのかもしれません。つまり、竹は版元保永堂の竹内孫八を表していて、ちゃっかり宣伝をしているのでしょう。

下画像は、上の絵の右側部分の拡大ですが、良く見ると、御座船の向かう先に関所の柵と面番所が描かれています。
今切の渡しの新居側の船着き場は関所の敷地内にあったそうです。ですから、船を降りるとすぐに関所が待っていました。

【6月23日追記】鰻蒲焼は荒井宿の名物
鰻はどこの名物と聞かれれば、「浜松!」と多くの人が答えるだろうと思います。現在の生産高トップは鹿児島県、2位が愛知県で、静岡県は第4位となっています。しかし、鰻の産地は浜松というイメージが強いと思います。
ところが、江戸時代はどうかというと、鰻蒲焼が名物とされているのは、浜松宿ではなく新居宿だったようです。新居関所跡にある新居関所史料館作成の「宿場と名物」という資料には、「新居宿-鰻蒲焼」、「浜松-鯉鮒料理」と書かれています。また、「東海道中膝栗毛」で、弥次さん喜多さんは、今切の渡しを船で渡った後、新居宿で鰻の蒲焼を堪能しています。
鰻が取れるのは浜名湖です。浜名湖に面している宿場は、新居宿と舞坂宿です。浜松宿は、浜名湖には面してなく、舞坂宿から2里30町(約11.1キロ)離れていました。従って、江戸時代は、浜名湖と浜松は少し離れているという感覚だったと思います。
浜名湖での鰻の養殖の歴史は、日本養鰻漁業協同組合連合会の資料によれば、明治24年に原田仙右衛門という人が新居町の池で鰻と鯉を養殖し、明治30年に服部倉治郎という人が舞阪町で養鰻を始めています。そして、浜名湖で鰻の養殖が本格的に行われたのは、第2次世界大戦後のことだそうです。
浜松に市制が施行され、浜松市となったのは、明治44年です。それ以降、浜松市は周辺町村を合併していき、現在は浜名湖東岸まで浜松市となっています。松阪町も、平成の大合併により平成17年に浜松市と合併しています。
従って、現在は、鰻が浜松の名物といって間違いはありません。しかし、江戸時代は、浜松宿は、浜名湖からは遠く離れていたため、鰻蒲焼は浜松宿の名物ではなく、浜名湖に面していた新居宿の名物だったようです。
白須賀(汐見阪図)
荒井の宿を出てから海沿いを通っていた東海道は、1里ほどで街道は右に折れて上り坂になります。この坂が、副題にもなっている「潮見坂」です。なお、広重の絵では「汐見阪」となっています。
白須賀宿は、潮見坂の下の海沿いにありましたが、宝永4年(1707)に起きたいわゆる「宝永の大地震」の際の津波により、大半の家が流されてしまったため、翌宝永5年、潮見坂の上に移動しました。
潮見坂から望む遠州灘は、東海道でも有数の絶景として知られていました。
広重は、坂道により弓形の輪郭をつくったうえに、近景の両側の松の樹により楕円形の枠をつくり、この枠の画面を横切る形で水平線と浜辺を描く構図で潮見坂からみる遠州灘の絶景を見事に描き出しています。
水平線には、白い帆を立てた船が並び、浜辺には人家や干した漁網も描かれていて、穏やかな浜辺の様子もうかがえます。
白須賀宿は、地震により街を移転させなくてはならないほどの被害を受けたことがありますが、普通の日にはこんな穏やかなんだということ感じさせる絵になっているのではないでしょうか。

画面手前の潮見坂を大名行列が下っています。進む方向を見てみると江戸に向っているようです。挟箱(はさみばこ)に掛けられた赤い布には、立方体を斜め上から見たような図案が染め抜かれていますが、これは、「ヒ」と「ロ」を組み合わせてつくつた広重の紋章なのです。下画像参照

ここ白須賀宿は、江戸文化歴史検定の第11回1級の問題にしゅつだいされていますので、参考に、その問題を書いておきます。
第11回「白須賀」は次のような問題です。
【12】下の絵は東海道随一の景観と賞された潮見坂からの眺望を描いた、歌川広重「東海道五十三次』の1枚です。では、宝永4年( 1707 )に発生した宝永地震による津波被害のため、潮見坂下から坂上の現在地へ移転した東海道の宿場はどこでしよう?
い) 吉原 ろ)興津 は)舞坂 に)白須賀(しらすか)

【6月23日追記】「行書東海道」に見る潮見坂
保永堂版では潮見坂の様子がよくわかりませんが、広重の東海道五十三次シリーズの一つである「行書東海道」の中の白須賀を見ると潮見坂から眼下に広がる遠州灘を眺めている旅人が描かれていて、潮見坂と遠州灘の絶景がよくわかります。下の画像をご覧ください。


