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新居関所と姫街道(広重『東海道五十三次』16)

新居関所と姫街道(広重『東海道五十三次』16

 広重『東海道五十三次』で、前回、新居宿を紹介しました。

新居宿は、箱根の関とともに東海道の重要な関所であった新居関所がありました。ここでのチェック、特に「入り女」の監視は厳しくて、正規の手形がないと通行できませんでした。そこで、今日は、関所の役割、新居関所で通行できなかった例、さらに浜名湖の北側を通る姫街道についてご案内します。

1、関所の役割

 関所は、古代から設けられていましたが、江戸幕府は,江戸防衛を主眼として各地に関所を設置しました。姫街道(詳細は後述)に設置された気賀関所跡には、全国の関所は53か所設置されたと説明してあり、設置された場所の地図も掲示されていました。(下記画像ご参照ください)

新居関所と姫街道(広重『東海道五十三次』16)_c0187004_19345982.jpg

 それを見ると、徳川幕府が設置した関所は、京都以東から江戸周辺部つまり本州中央部にだけ設置されていることがわかります。この配置図からは、関所は、江戸を防衛することを主要な目的として設置されたということを見て取ることができます。

 関所として有名なものは、東海道の箱根や新居、中山道の碓氷や木曽福島、日光(奥州)道中の栗橋、甲州道中の小仏などがあります。

2、新居関所を通行できなかった例

 関所では、特に「入り鉄砲」と「出女」が厳しくチェックされました。「入鉄砲」とは、関東内に諸大名以下の鉄砲が入り込むことをさし、「出女」とは、江戸の藩邸に人質同様に居住する大名の妻子が国元へ逃げ帰ることをさしました。 

関所はこの監視が主要な任務でしたが、東海道の最も西にあった新居関所は、「出女」だけでなく、「入り女」つまり江戸に向かう女性についても厳しく監視されました。

関所を通行するには関所手形が必要でしたが、女性の場合には女手形と呼ばれました。

入り女の手形の発行は、京都所司代や各地の奉行所、そして特定の大名などが発行しましたが、手形発行者については幕府によって事細かく決められていたようです。

この「手形」を所持していない場合は当然通行できませんし、不備が見つかった場合でも通ることはできませんでした。
 時には、女性が男装して関所を通行しようとすることもあり、関所の「改め女」は、そうした場合には、股間まで調べることもあったようです。下写真は、男装しているらしき女性を改め女が調べている様子です。姫街道(後述)の気賀(きが)関所に展示されていました。

新居関所と姫街道(広重『東海道五十三次』16)_c0187004_09293410.jpg

こうした厳しいチェックが新居関所で行われていたため、歴史上の有名な人物も通行できなかった例が記録されていますので、赤穂浪士の矢頭右衛門七(えもしち)と井上通女の例を紹介します。

1)矢頭右衛門七(えもしち)

忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士の一人に矢頭右衛門七(えもしち)という若者がいます。矢頭右衛門七は、大石主税の次に若く、討ち入り時若干17歳でしたが、この矢頭右衛門七が、討ち入りに参加するにあたって、母を連れて大坂を出て、母の叔父が住んでいる陸奥国白河藩へ向かいました。
 しかし、右衛門七は、まだ若くて旅慣れていなかったため、女手形を用意していませんでした。そのため、母は新居関所を通過することができず、右衛門七一人で江戸に下りました。

これは、赤穂市が発行している「忠臣蔵第1巻」に書かれています。(後記参照)

2)井上通女

矢頭右衛門七(えもしち)の場合は、女手形がなかったために新居関所を通行できなかった例ですが、女手形が不備であったため、通行できなかった例も記録されています。

丸亀藩の儒学者井上儀左衛門本固の長女として生まれた通は、「井上通女」と呼ばれ、雨森芳洲,林鳳岡ら著名な学者文人と交わり,その才媛ぶりが評判であった女性です。

この井上通女が、天和1(1681)22歳で丸亀藩主京極高豊の母養性院に召され,江戸に下りました。

この時に、新居関所を通行しましたが、その際に女手形の記載事項に不備があったため、それを改めた手形が整うまで、新居宿に留まっていたことが、彼女が書いた「東海紀行」に記録されています。

「東海紀行」には、次のように関所手形には「小女」と書くべきところ「女」と書いてあったため、通行を許されなかったことが書いてあります。

難波にて給りし御印、関所に奉りしに、「わきあけ」たるを小女と書べき事を、えしらで、ただ女とのみ書て奉れり、さて御印の言葉も、女とのみありければ、ゆるし給わで、むなしく元の宿に帰ぬ

「女」とは、一般女性を指しました。「小女」とは幼児から成人前(もしくは未婚)の女性を指しました。

井上通女は、22歳ですので「女」でもおかしくない年齢です。しかし、関所手形には「わきあけ」と書いてありました。「わきあけ」とは「脇明け」と書いて振袖のことをいいました。

当時は「振袖」は未婚の若い女性が着ましたので、振袖を着る人は「女」ではなく「小女」と書かれてなくてはなりませんでした。しかし、通女は振袖をきていまがら「女」と書いてあったため通行できませんでした。これだけの違いも関所を許さないほど厳重なチェックが行われていたということです。

井上通女は、関所手形の不備があったため、再度関所手形を取得するため、使いの者を難波に向かわせ、自分たちは新居の旅籠屋に滞在し使い者の帰りを待たなくてはなりませんでした。

そして、使いの者が立ち戻り、12月3日に、新しく取り直した手形で無事に新居関所を通る事を許されました。1127日に新居関所で通行を拒否されましたので、約1週間、足留めをくうことになったわけです。

そのため、井上通女は次のような和歌を新居で詠んでいます。

旅衣 新井の関を越えかねて 袖による波 身をうらみつつ

この女手形は、江戸からの「出女」の場合には、幕府の留守居役が発行しました。江戸以外の住んでいる女性の場合には、どこで発行するのか、今のところ未詳です。

3、姫街道

このように非常に厳しいチェックを警戒して、新居関所を避ける女性が出るようになったといいます。こうした人々が通行したのが浜名湖の北側を通っている「本坂道(ほんさかみち)」です。

「本坂道(ほんさかみち)」は東海道の脇街道、脇往還で、「見付宿(現在、静岡県磐田市)」で東海道と別れて、浜松の東北部を通り、関所のある気賀を通り、三ケ日に出て、国境の本坂峠を越えて、豊川を渡って「御油(ごゆ)宿(現在、愛知県豊川市)」で東海道と合流する1514(60キロメートル)の道程でした。

この街道は、公家や武家の奥方、姫君女中衆が使用したことから、本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれるようになりました。

この姫街道の気賀(きが)にも、気賀関所があり、ここでも「入り女」の監視は厳しかったようです。下写真が気賀関所です。

新居関所と姫街道(広重『東海道五十三次』16)_c0187004_19345993.jpg

 そのため、新居関所の厳しさを逃れるために姫街道を通行したとよくいわれます。しかし、これは俗説のようで、実は、姫街道を通行する主な理由は、当時、浜名湖の今切の渡しを渡ることは大変危険であったため、今切の渡しを避けるためだったようです。

【参考】

1、赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」p255

「陸奥国白河藩松平基知の家中に叔父がいるので、それに母を預けるため、母と連れ立って東海道を下ったが、初めての旅のこととて新居の関(静岡県新居町)で女手形が要ることを知らず、手形不携帯のため通関できなかった。路銀も乏しく、やむなく母は赤穂の知合いのもとに帰すことにし、右衛門七が一人江戸に下って列に加わった。これは礒貝十郎左衛門が語るところである。」

 矢頭右衛門七の話は、同じ赤穂浪士の礒貝十郎左衛門が細川藩の堀内伝右衛門に語った話で「堀内伝右衛門覚書」に記録されているとのことなので、それを確認すると次のように書かれています。

2、「堀内伝右衛門覚書」 国立国会図書館ウエッブサイト掲載の「翁草」所収

「毋方叔父越後国松平大和守様御家中に居候故、是へ母を預置可申候とて、母子速にて道中荒川(井の間違いか?)駅迄参候。初旅と申處、若者の事ゆえ女切手を持事を不存、荒井より立帰申候」

※松平大和守家は、元禄5年に白河に移封され、それ以降、赤穂事件が起きた元禄年間には、白河藩藩主でしたので、堀内伝右衛門覚書で越後国と書かれているのは誤りと思われます。

 赤印が気賀関所です。
 青印が新居関所です。
 二つの関所は、浜名湖を挟んでちょうど反対側にあります。





by wheatbaku | 2020-06-25 19:30 | 広重『東海道五十三次』

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