藤川・岡崎(広重『東海道五十三次』19)
今日の広重『東海道五十三次』は、藤川と岡崎についてご紹介します。
岡崎は、どこにあるか、多くの方はご存じでしょうが、藤川は首都圏の人にはなじみのない地名です。現在は、藤川は岡崎市藤川町となっています。つまり、今日お話しする藤川・岡崎は、愛知県岡崎市にあります。
藤川(棒鼻ノ図)
藤川は、赤坂の次で、岡崎の手前になります。現在は、JRは通っていませんが、名鉄名古屋本線の藤川駅があります。
この絵の副題は「棒鼻ノ図」ですが、棒鼻は「ぼうはな、もしくは、ぼうばな」と読み、宿場の端つまり出入り口を言います。宿場の境には境界を示す榜示杭(ぼうじぐい)が立っていたところからこう呼ばれるようになりました。
この絵では、副題の通り、藤川宿の入り口が描かれています。
この絵の中央に榜示杭と高札らしきものがあり、その左には土盛りをした石垣があります。これは宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)というものだそうです。
手前には、高札場の屋根らしきものが描かれ、その右側に土盛りのある宿囲石垣も描かれています。
この宿場の入り口に、宿場の役人とおぼしき二人の男が土下座しています。その隣には、通りかかった旅人らしき人物が笠を取って膝を突いています。見落としがちですが、行列を迎えている宿場役人と旅人のそばで、3匹の子犬がじゃれていますが、京都の円山四条派の大の表現を採り入れたものだそうです。
彼らの向かい側を良くみると、黒い馬と茶色の馬を連れた行列が通行しています。

馬を連れた行列を拡大してみたのが下の画像ですが、二匹の馬にそれぞれ御幣(ごへい)が立てられていることから、八朔の御馬進献(おうましんけん)の行列だと考えられています。これは毎年八朔(旧歴8月1日)に、幕府が、幕府管轄の牧場から選び抜かれた駿馬を朝廷に献上し、それを宮中で天覧に供するという重要な儀式でした。
広重は、天保3年(1832)の八朔の御馬進献の行列に随行して上洛し、そのときの写生をもとに保永堂版を描いたと言われていて、ほぼ定説と考えられてきました。
しかし、最近では、広重は文政6年(1823)には定火消同心を安藤仲次郎に譲って後見役となっていたことや、「東海道名所図会」の挿絵を多く参考にしています(後述の岡崎の矢矧橋も参考例の一つです)。こうしたことから、八朔の御馬進献の行列に随行して上洛したことを疑問だとする説が有力になっています。私も、火消同心の後見役が行列に随行するのは難しかっただろうと思います。

行列の挟み箱に掛けられた布には、本来なら三葉葵の紋が染め抜かれているはすですが、笹竜胆に似た笹の紋が染め抜かれています。これは、版元の保永堂(竹内孫八)の竹を意識したものだと思われます。
岡崎(矢矧橋)
岡崎宿は岡崎城の城下町でもありました。
この城は徳川家康生誕の場所であったため、徳川家康が関東に入封された後、豊臣秀吉家臣の田中吉政が城主であった時期を除いて、関ヶ原の戦以降、代々譜代大名が配されています。田中吉政の後、本多康重が5万石で入封し、その後、水野忠善が5万石で入封しました。水野家は肥前唐津に転封となり,松平康福が5万400石で入封し、その松平家も石見浜田へ移され、松平家の後、本多忠勝の子孫が藩主となり、以後本多家が藩主として明治を迎えました。
その岡崎城が、この絵では、中景の右手に描かれています。
岡崎城は、三河国の大河矢作川と乙川が合流する地点に築城されています。
この矢作川に架けられている橋が、この絵の副題となっている「矢矧橋」です。
広重は橋の西のたもとから川の東岸に向かって望み、橋の先に岡崎城の天守閣や櫓を描いています。
矢矧橋は、橋の長さは208間(約370 )あり、東海道で最長の橋でした。
この橋の上を、いま大名行列が江戸へと向かっています。
遠景に描かれている墨色の山は甲山、その奥の青色の山は村積山と考えられているようです。

この絵では、岡崎城は、矢矧橋の東たもとの左手に描かれていますが、地図で見ると、岡崎城は、矢矧橋の東にあるので、この絵でいえば右手にあたります。
広重は、現地をその写し取って絵にしているわけではなく、参考にしていたと言われる『東海道名所図会』の挿絵(下図)もベースにして、自分なりの構図を作っているのだろうと思います。
「国立国会図書館ウエッブサイトから転載」

