池鯉鮒・鳴海(広重『東海道五十三次』20)
広重『東海道五十三次』、今日は、池鯉鮒と鳴海について書いていきます
池鯉鮒(首夏馬市)
池鯉鮒は東海道五十三次の宿場の中で三河国で最も西にある宿場でした。池鯉鮒は、現在では知立と表記します。「ちりゅう」という地名の初見は、天武天皇の時代にまで遡るそうです。その表記は、「知立」のほか、「智鯉鮒」「池鯉鮒」などと表記され、時代時代により変化していき、中世は「智鯉鮒」、江戸時代には「池鯉鮒」と書かれることが多く、明治になってから「知立」と表記されるようになったようです。
広重は、池鯉鮒宿を描くのに、宿場の様子でなく、宿場を離れた東の草原で開かれていた馬市の光景を描いています。
池鯉鮒の馬市は、その頃はかなり有名でした。江戸時代初期には開かれていたようで、『東海道名所記』には「馬市は木綿市を契機として始まった」とも記されているそうで、池鯉鮒の木綿市と大いに関係がありそうです。三河は木綿の一大産地でした。その中で池鯉鮒で木綿市が開かれ、元禄5 年(1692)に松尾芭蕉が「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市」と詠んでいます。
馬市は、4月から5月初めにかけて開催され、「東海道名所図会」には毎年4月25日から5月 5日まで開催と書かれています。
この絵の副題は、「首夏馬市」ですが、首夏とは、陰暦4月もしくは初夏をさしました。ちょうど馬市が開かれる時期です。
この馬市には4~500 頭の馬が集るとも「東海道名所図会」に書かれています。
絵の中央に一本の木が描かれていますが、これが談合松と呼ばれた松で、ここに博労たちが集まって、値段交渉をしました。その方法は袖の中に手を入れて、他の者にわからないように指を握りあって値段を伝えていたようです。
また馬市には馬喰だけでなく、いろいろな商人をはじめ、そのほか、役者や芸人、遊女などまで集まり池鯉鮒宿中が賑わっていたといいます。
広重の絵でも、談合松の元に博労たち集まっている様子を描いていますし、そこに集まった博労たちに弁当でも売ろうとしていると思われる人物2人も描かれています。なお、手前の2人は、馬を引いてきた近郷の農夫でしょうか。
この絵は、談合松の根本近くの地平線で画面を上下に二分して、上に空を描き、下には草原が広がる構図となっています。そして、草原には数多くの馬たちが杭につながれています。その馬たちものんびりとした様子です。
そして、よくみると、草原の草の葉が右になびいていることから 左から右に風が吹き抜けている様子がわかります。
「この図の最大の魅力は、初夏の爽やかな風が表現されていることです」と書いた解説もあり、広重の素晴らしい表現力として高く評価されているようです。
鳴海(名物有松絞)
池鯉鮒を出ると三河と尾張の国境の境川があり、そこからが尾張国となります。
鳴海は、東海道五十三次で、尾張国最初の宿場となります。とはいっても尾張の宿場は鳴海と宮のふたつだけです。
この絵の副題は「名物有松絞」です。
有松は、鳴海の手前半里ほどある「間(あい)の宿」でした。知立と鳴海の間の距離は2里30町(約11.1キロ)あり、旅人にとって大変不便でした。そこで、尾張藩により、慶長13年(1608)東海道沿いに新しい集落として有松が開かれました。しかし、有松は稲作に適する土地ではないため、有松に移り住んだ最初の住人の一人である竹田庄九郎が有松絞を開発したといいます。
有松絞は、全国的に有名で、ここで製造された絞り染めの浴衣や手ぬぐいは、当時の国内需要の大半をまかなっていたともいわれます。
「東海道中膝栗毛」でも、弥次さん喜多さんも、有松絞の手ぬぐいを購入しています。
この絵では、東海道に面して有松絞りを商う店が2軒立ち並んだ様を描いています。
店舗は、瓦葺の2階建で2階の窓は連子格子となっていて軒看板もだされています。そして、手前の店の隣には蔵が描かれていて、この2軒の御店はかなりの大店だと思われます。御店の軒下にはさまざまな柄を持つ布地や浴衣がつるされています。
一方、街道には、2人連れの女の旅人とその後ろも駕籠に乗った女の旅人、その後ろは馬に揺られる女性と女性ばかり描かれています。
有松絞りが女性に人気だったことを反映しているのかもしれません。しかし、この女性たち有松絞りの店を見ている様子はありません。もうお気に入りの有松絞りは手に入れたのでしょう。
手前の店では、旅人が品物を見せてもらっています。その店の暖簾には、広重の「ヒロ」を組み合わせた印が、その左右には版元保永堂からの出版だという意味で、「竹内」「新板」の文字が染め抜かれています。下の拡大した画像をご覧ください。
ここでも、広重は、自分と版元をしっかりアピールしています。