四日市・石薬師(広重『東海道五十三次』24)
今日は通常通り、広重が描いた保永堂版「東海道五十三次」の解説を行します。今日、ご案内するのは、四日市と石薬師です。
四日市(三重川)
四日市は、現在は工業地帯として有名ですが、元毎月四のつく日に市が開かれたことから四日市という名前がついたごとく商売の町でした。また、三重川の河口に出来た湊町としての面ももっていました。
桑名から宮へは七里の渡しがありましたが、四日市からは「十里の渡し」と呼ばれる渡し船がありました。お伊勢参りに行くには、四日市まで舟で渡ったほうが近道になるため、お伊勢参りが盛んになってからは、七里の渡しと十里の渡しの競争が激しくなったようです。
この絵の副題となっている「三重川」は、鈴鹿山脈の御在所岳を源として、四日市を流れ伊勢湾に注ぐ現在三滝川と呼ばれている川です。
この川に架かる橋を越えると四日市宿に入ることになります。
三重川が伊勢湾に流れ込む場所に湊が開かれていますので、左手に描かれた帆柱は湊に停泊している舟の帆柱でしょう。
この絵で描かれているのは、四日市の宿場のにぎやかな様子でなく、宿場の東を流れる三滝川(右の橋は三滝橋だと言われています)の河口近くの葦が生い茂る鄙(ひな)びた場所です。
しかし、描かれているのが、風景だけでなく「風」も描かれているのがこの絵の見どころです。
中央の柳と思われる木の枝が大きく右から左に流れています。その柳の木の下では、旅人が風に飛ばされた笠を必死になって追いかけています。旅人の「待て~!」という叫び声も聞こえてきそうです。右手の橋の上の旅人の合羽も大きく左に流れていて、旅人は前屈みになって用心深く橋を渡っています。これらの様子をあわせ眺めると右から左に強い風が吹いているように感じられます。こうした動きが感じられるのが、広重のすごさだろうと思います。
四日市宿を過ぎるとまもなく日永の追分で、東海道と伊勢街道が分岐します。東海道は西に曲がりますが、伊勢街道は真っすぐ南に向かいます。桑名の七里の渡しの船着き場には一の鳥居がありましたが、日永の追分には二の鳥居と呼ばれる大きな鳥居があります。
石薬師(石薬師寺)
石薬師はその名の通り石薬師寺の門前町でしたが、元和2年(1616)に東海道の宿場のひとつと定められました。この絵の副題となっている石薬師寺は、神亀3年(726)に開かれた真言宗の古刹(こさつ)です。
石薬師寺のご本尊は空海作と伝えられる自然石に線刻された薬師如来で、石薬師寺という御寺の名前もこの本尊に由来します。石薬師は秘仏になっており,毎年12月20日のすすとりに合わせてご開帳されます。
この絵では、左手に石薬師寺を描き、その右手に続く家並が石薬師宿です。
画面手前の畑中を道が通っていてそれが石薬師寺の門前で交差している道が東海道です。畑中の道を荷物を担いだ農夫二人が歩いていますが、家路を急いでいるのでしょうか。その右手には田圃が広がっていますが、既に刈取りも終り。稲藁(いなわら)が積み上げられていて、田圃の中の農夫は稲を収穫した後の田圃の整備に余念がありません。
石薬師寺と宿場の家並の後ろ側にそびえた山々は鈴鹿の山と考えられていますが、手前の山を濃い緑、奥は藍で描いていて、色彩の変化により遠近を表現しています。
下画像が石薬師寺の部分を拡大したものですが、幾重にも建物が重なっていて、石薬師寺が大きなお寺であることがわかります。山門の奥の茶色の屋根の建物が本堂でしょう。山門の道が東海道です。ちょうど、馬に乗った武士が石薬師寺の門前を通り過ぎるところが描かれています。