亀山(広重『東海道五十三次』26)
前回、広重『東海道五十三次』のうちの庄野と亀山を紹介しましたが、亀山は一度訪ねたことがありますので、今日は亀山について少しご案内します。
亀山を訪ねたのは、文京学院大学生涯学習センターの講座「江戸の仇討」で取り上げた「亀山の仇討」の取材のためでした。平成30年の12月にたずねましたので、当時を思い出して、三重県唯一の現存城郭建造物の「亀山城多門櫓」、広重が描いた「京口門」、そして「亀山の仇討」の討手の井上兄弟を顕彰した「井上兄弟敵討碑」をご案内します。
亀山城多門櫓
亀山といえば、東海道五十三次の宿場町であるとともに、亀山城の城下町です。
亀山城は、天正18年(1590)に岡本宗憲により新たに築城されたとされ、寛永13年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mの大きさを誇る縄張りが確定し、この時の城の形が大きな変動なく明治維新まで続きました。下写真は多門櫓を背景とした「亀山城址」の石碑です。

亀山城は、東海道の要衝を占めることから譜代大名が封じられましたが、藩主はめまぐるしく入れ替わりましたが、延享元年(1744)板倉勝澄が備中松山へ移封となり、交代する形で備中松山藩の石川総慶が亀山藩主となりました。それ以降は石川家が亀山藩主として続き明治維新を迎えました。
亀山城には、江戸時代初期には天守がありましたが、寛永9年(1632)、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)の修築を幕府より命じられた堀尾忠晴が間違えて天守を解体してしまったという伝承があるようです。
この話がウソのような話ですので、亀山市博物館に問い合わせたところ、亀山藩の野尻村在住の大庄屋打田権四郎昌克が編んだ『九々五集(くくごしゅう)』に書いてあるとのことで、このことを記録した江戸時代の文献史料があることは確認できました。また、『九々五集』には、亀山城の別名については、「姫垣」(城の石垣の上にめぐらされた低い垣根)を意味する「粉堞(こちょう)城」と記されているそうです。
亀山城は、堀尾忠晴により解体されて以降、天守はありませんでしたが、明治になると、明治6年の廃城令により残されていた建造物もほとんど取り壊されてしまいました。その中で、石垣・土塁のほか、唯一、多門櫓だけが残されています。(下写真)
現存する「多門櫓」は、18世紀後半頃に武器庫として建てられ、明治時代には士族授産の木綿段通(もめんだんつう)工場として使用されたため解体されずに現在まで残っています。現在、三重県では、亀山城の多門櫓が唯一現存する城郭建造物ですので、三重県史跡及び県有形文化財(建造物)に指定されています。
多門櫓は、平成24年度に「平成の大修理」が完了し、創建当時の姿に復原されました。
ちなみに、現在の多門櫓の壁は、白壁ですが、平成の大修理の前は、黒い板が貼られていましたが、創建当初の白壁に復元したとのことです。下写真は、「井上兄弟敵討碑」(詳細後記)から写した多門櫓です。

京口門
広重の「亀山(雪晴)」で描かかれているのが、亀山城の京口門です。現在は、旧東海道脇に「京口門跡」の説明板が設置されています。

東海道は、亀山城の東にある江戸口門で、亀山城下に入り、亀山城の南端を巡り、西側の京口門を抜けていました。
江戸口門と京口門はともに亀山城総構の城門として位置づけられていて、江戸口門から京口門の間が亀山宿でした。そのため、京口門は、亀山宿の西端となりますが、竜川という細流の東側の崖上に築かれた門で、寛文12年(1672)に完成したとされています。
京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にもあたっていたようです。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、当時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったようです。明治時代の古い写真を見ると、その面影が確かに残されています。(下写真)

現在は、旧東海道の脇に、「京口門跡」という説明板が残されているだけです。
この説明板の設置された場所の風景は、広重の描いた「亀山(雪晴)」の姿はまったく異なっています。
下写真が、説明板の遠景です。説明板は中央電柱の奥に設置されていて、中央の道路が旧東海道です。この写真の手前部分は、竜川にかかる京口坂橋です。現在は、京口坂橋があるため、すっかり平坦となっていて、京口門に至る坂は全くありません。

しかし、京口門のあった場所から、竜川に降りてみると確かに下り坂となっていて、この坂を誇張して描けば、広重の絵になると思いました。
下写真が竜川の川沿いから京口門方向を撮ったものです。
土手の脇の道路は、京口坂橋を架けた際に作られた道で、江戸時代の面影は全くありません。しかし、江戸時代の東海道が、上の道から手前側にある竜川に下っていたという感覚は感じられました。

石井兄弟敵討碑
元禄14年(1701)5月9日、石井源蔵・半蔵兄弟が亀山城石坂門外で、父と兄の敵である赤堀水之助を討ち果たしました。
この仇討ちは、亀山の仇討ちと呼ばれ、歌舞伎などにも取り上げられ、江戸でも大変な評判となりました。
この二人を顕彰した石碑が、兄弟が本懐を遂げた石坂門外の多門櫓の見える場所に建立されています。(下写真)

《亀山の仇討》
亀山の仇討ちの討手石井源蔵・半蔵の父石井宇右衛門は信濃国小諸城主青山因幡守宗俊の家臣で、青山宗俊が大坂城代となった時、青山宗俊に従って大坂へ赴任していました。
その折り、友人赤堀遊閑が訪ねて来て、養子の源五右衛門の将来を頼みました。宇右衛門は引き受けましたが、しばらくして、源五右衛門が家中の者に槍を教えていると聞き、宇右衛門は、もう少し稽古をしてからにしたほうがよいと説くと、源五右衛は立腹し、それならば勝負をしたいと言うので、宇右衛門も仕方なく応じて源五右衛門を討ち負かしました。
このことを恨みに思った赤堀源五右衛門は、延宝元年(1673)10月18日、外出中の石井右衛門の屋敷に入り込み、帰宅した宇右衛門を槍で殺害しました。
宇右衛門を殺害した赤堀源五右衛門は、殺害後すぐに逃亡しました。そこで、小諸藩の近習役で18歳になる宇右衛門の長男兵右衛門は仇討の旅に出ました。しかし、源五右衛門はみつからなかったため、その年の冬に、源五右衛の養父赤堀遊閑を大津で討ちとりました。
赤堀遊閑を討ち取った赤堀兵右衛門は、8年後の天和元年(1681)正月、美濃で源五右衛門の返り討ちに遇ってしまいます。
そこで、兵右衛門の弟(宇右衛門の次男)の彦七郎は、兄が返り討ちにあったと聞き、仇討ちに出ますが、その旅の途中で船が転覆し溺死してしまいます。
宇右衛門には男子が四人おり、三男源蔵・四男半蔵は、父が討たれた時、まだ5歳と2歳でした。
その後、縁者の安芸国の知り合いに預けられていましたが、二人の兄が死んだので、源蔵が14歳になった年、仇討ちに旅立ちます。
その頃、赤堀源五右衛門は、名を赤堀水之助と改め、亀山藩に仕えていましたが、亀山藩は源五右衛門をかくまい、他国者には一夜の宿をも禁止し、見知らぬ者は一切城内に入らせないといった厳重さで、容易に近づくことができまず、むなしく歳月が流れました。
そうするうち、ようやく、兄源蔵は亀山藩士の家に奉公することができ、その後まもなく弟半蔵も鎌山藩士の家に奉公することができ、二人そろって亀山城内に入れるようになりました。
そして、ついに仇討ちの機会が訪れました。元禄14年(1701)5月9日の朝、宿直であった源五右衛門が出てくるのを亀山城内で待ちうけて、石井兄弟はめざす仇源五右衛門を討ち果たしたのでした。
父の死から29年目、兄兵右衛門の死から20年目のことと言われています。
亀山駅
亀山駅は、関西本線の主要駅であるし、シャープの亀山工場もあることから、多くの人が乗り降りする近代的な駅だろうと予想していきましたが、予想外に、昭和の趣のある駅でした。
下写真が亀山駅の駅頭の写真と駅のホームです。近代的な駅を見慣れていると田舎の駅と思うかもしれませんが、私は、昭和の趣が残っていてすごく懐かしい感じがして大変印象に残りました。そんなことで、江戸には直接関係ありませんが亀山駅の写真をアップしておきます。



