関宿(広重『東海道五十三次』28)
前回紹介した関宿は、東海道五十三次の宿場の中で唯一「重要伝統的建造物群保存地区」-伝統的建造物群保存地区(俗に「伝建地区」)の中で特に価値の高いもの-に指定されていて、現在も江戸時代そのままの宿場風景が残されています。関宿が伝建地区に指定されたのは、昭和59年のことです。
亀山を訪ねた際に、関宿も訪ねましたので、今日は、関宿をご案内します。
重要伝統的建造物保存地区の「亀山市関宿」として保存されている地区は、旧東海道の東追分から西追分に至る街道に沿った町並み、約1、8キロとその北側に接する社寺を含む地域です。
この地区内の建造物のうち、江戸・明治のものが約半数を占め、昭和戦前までの木造建築を含めると7割に達するそうです。
関宿は、東側から、木崎、中町、新所となっていますが、JR関西本線の関駅から歩いていくと、約10分弱で中町につきます。中町は関宿の中央部分にあたります。
関宿の伝建地区を見るには、東の追分から西の追分まで見るのが良いのですが、これをしっかり見るには、一日が必要となります。私は、JR関西本線の関駅から関宿の半ばに出て西追分にまで行ったため、反対側の東の追分などは見られませんでした。
下写真は、中町から西側の宿場の様子を写した写真ですが、人っ子一人いないタイミングですと、まさに江戸時代の宿場にタイムスリップした気分になります。

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関神社
関神社は、関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれました。明治42年に関神社と改称されました
関神社の夏まつりでは、神輿渡御や曳山(ひきやま)が行われます。この曳山が「関の山」の語源です。
. 「関の山」は「精一杯である」とか「限度いっぱい」という意味でつかわれますが、この言葉の語源にもなったのが、関神社の夏祭りで引廻される非常に豪華な山車(だし)です。このが狭い街道をふさぎ、これ以上は通るに通れない様子から「関の山」という言葉が生まれたといわれています。つまり「やま」というのは「山車」を指したものです。

瑞光寺
関神社の西側に瑞光寺があります
瑞光寺は、応安4年(1371)の創立といわれ、兵火により焼失し、その後、永禄~天正年中(1558~1591)に、当時の亀山城主関安芸盛信が菩提寺として現在の地に移し再興したと言われています。
本堂前に植えられている柿は「権現柿(ずいこうじごんげんがき)」とよばれています。権現柿は、徳川家康が上洛の際に関に立ち寄ったときに賞味したと伝えられている柿の木です。瑞光寺の中興開山豊屋永隆和尚は、三河国宝飯郡に生まれ、幼少のころ徳川家康と親交があったため、家康が立ち寄ったようです。

眺関亭(ちょうかんてい)
旧東海道に戻り、西に歩いていくと[百六里庭]と名付けられた小公園があります。関宿が江戸から106里余りあることから名付けられました。通りに面した建物「眺関亭(ちょうかんてい)」からは、関宿の家並みが一望できます。西を見ると. 正面に地蔵院本堂の大屋根が見え、それに向かって、家並が続いている様がよくわかります。

関宿旅籠玉屋歴史史料館
関宿の中ほどに「関宿旅籠玉屋歴史史料館」があります。
玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋(あいづや)か」とうたわれた関宿を代表する旅籠のひとつでした。
江戸時代の旅籠建築を修復し、当時玉屋で使われていた食器やお膳類、江戸時代の庶民の旅に関係する歴史資料や美術品などを展示した、日本最初の旅籠資料館です。

高札場跡[関郵便局]
高札場跡関宿のほぼ中心にある関郵便局は、江戸時代には高札場があったところです。郵便局の前には高札が復元されています。

福蔵寺は、天正11年に織田信長の三男信孝の菩提寺として創建されました。東海道の北側にありますが、参道は東海道と接しています。下写真は東海道に面して建つ山門です。

福蔵寺には織田信孝のお墓があります。(下写真)
織田信孝は、織田信長の3男で、幼名は三七と呼ばれました。永禄11年(1568)信長の命令で北伊勢の豪族神戸具盛の養子となり,神戸氏を称しました。天正10年の本能寺の変により、織田信長が死亡し、後継者を決める清須会議により、豊臣秀吉により、信長の孫三法師が後継と決まると、柴田勝家と強く結びつき、岐阜城に籠もって豊臣秀吉に抵抗しましたが、岐阜城を包囲されると信孝は母の坂氏を人質に出し恭順します。賤ケ岳の戦で勝家が敗れたあと,兄信雄の勧めで岐阜城を開城し、尾張知多半島の突端,野間の内海に幽閉され、切腹させられました。

また、女性の仇討として地元で有名な「関の小萬」のお墓も福蔵寺にあります。(下写真)
小萬が育ったと言われているのが現在も営業している食事処会津屋です。会津屋については後述しますので、仇討の経緯は会津屋の所で書きます。

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地蔵院
東海道に面している地蔵院は、天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられ、「関の地蔵に振袖着せて奈良の大佛婿に取ろ」の俗謡で有名で、東海道を旅する人々の信仰を集め、現在でも多くの参拝客でにぎわっています。
5代将軍綱吉が元禄13年(1700)に建立した本堂・鐘楼・愛染堂の3棟の建物は国の重要文化財にも指定されています。下写真が本堂です。

本堂の南側にある愛染堂は、三重県で最も古い建物で、文永4年(1267)の建立されたものです。
会津屋
関宿を代表する旅籠の一つだった会津屋は、現在は食事処として営業しています。(下写真は会津屋外観です)

この会津屋は、福蔵寺にある小萬が育った旅籠だとされています。
「関の小万の仇討ち」という物語は次のような物語です。

小萬の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と言いましたが、遺恨により同輩の小林軍太夫に殺されました。そこで、牧藤左衛門の妻は、身重の身体で夫の仇を討つため旅に出ましたが、鈴鹿峠を越え「関宿」についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋(現会津屋)の前まで来たときには行き倒れ同様の有様でした。
親切な山田屋の主人と女将は、牧藤左衛門の妻を手厚く看病し、妻はそこで女児を産みました。しかし、女はまもなく子供の将来を宿の主人に託して死んでしまいました。小萬と名付けられた娘は成長して養父母から両親のことを聞かされ、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をしました。そして、亀山藩家老加毛寛斎に武芸を習らいました。そして、ついに天明3年(1783)、運良く仇と巡り会うことができ、小萬は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができました。
新所(しんじょ)の町並み
新所は関宿の西側に位置します。その大半が小規模な平屋で仕舞屋風であるため、全体としてやや地味で落ち着きのある町並みです。

西追分(にしのおいわけ)
関宿の西の入口となる西追分は、東海道から大和・伊賀街道が分岐していました。石柱には「ひだりハいかやまとみち」とあります。
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関の銘菓「関の戸」
関宿の中ほどに、寛永年間に服部保重により創業された老舗の和菓子屋深川屋があります。初代服部保重は、伊賀の服部出身の武士だったそうです。下写真が深川屋の外観です。

また、看板の文字には「関の戸」と書かれていますが 東海道を旅する江戸時代の旅人は そこに平仮名が見えていれば 自分は京都へ向いて歩いているとわかり反対側は漢字ばかりで 江戸へと続いていると理解したと伝えられています。下写真は江戸側からみた看板の拡大写真です。「関の戸」と「の」の文字がひらがなとなっています。一方、京都側の看板の文字は「関能戸」と書かれています。

深川屋を代表する菓子が「関の戸」です。
「関の戸」は、赤小豆のこし餡を、白い求肥皮で包み、阿波の和三盆をまぶした餅菓子で、寛永年間より370年作り続けられています。
その姿は鈴鹿の峰に降り積る雪をモチーフに考案されたそうです。

深川屋のお店には、貴重なものが展示されています。下写真がお店の中の様子です。

その中から「担い箱」を紹介します。
深川屋は、京都の御室御所(仁和寺)の御用達でした。担い箱は、この中に「関の戸」を詰めて、京都の御室御所まで運ぶための容器でした。 担い箱は白蝶貝や青貝の総螺鈿細工が施された豪華な菓子器です。(下写真)

担い箱二つを天秤棒の両端で担ぎ、関宿から二日がかりで京まで運んだそうです。担い箱は総重量30キロ以上あったそうですので、運ぶのも大変だったと思います。

