石部、草津(広重『東海道五十三次』30)
今回の広重『東海道五十三次』は、石部と草津について書きます。草津は東海道五十三次の52番目の宿場ですので、東海道五十三の宿場も残すところ大津だけとなり、広重の絵でも、「大津」と「三条大橋」だけとなります。
石部(目川ノ里)
石部宿は、水口から3里12町(約13.1キロ)、土山や水口を流れている野洲川を下った先にあります。石部宿は、現在の滋賀県湖南市石部にあたり、最寄り駅は草津線石部駅です。
しかし、広重は、石部宿そのものを描くのではなく、副題の「目川ノ里」の通り、石部と草津宿の間にある目川の立場(たてば)を描いていますが、この場所は石部宿というよりも、むしろ草津宿のすぐ手前に位置していて、現在は、石部のある湖南市でなく栗東市になります。
目川の立場(たてば)は、菜飯と豆腐の田楽が名物として知られていました。
広重の絵で描かれているのも、この菜飯田楽を売る茶屋です。この茶屋は、「伊勢屋」という実在した茶屋です。現在は、「田楽茶屋元伊勢屋址」という石柱が建てられています。
目川の菜飯と田楽は旅人に好評の名物でした。菜飯は、蕪や大根などの葉を茹でて細かくきざんだものを薄い塩味で炊いた飯に混ぜたものです。
田楽は豆腐を串にさして味噌をつけて焼いた豆腐田楽のことです。
菜飯も田楽は、『嬉遊笑覧』(1830)には「田楽かならず菜飯に添えてくふも寛永頃よりなるべし」とあり、菜飯と田楽は江戸初期からセットで食べられたようです。
目川の菜飯田楽が好評でしたので、各地に目川の菜飯田楽を名乗る店ができたほどでした。
手前には街道を行く旅人の一団が描かれていて、茶屋の中には店の中を覗き込んでいる馬子も描かれています。

地理的には草津宿が近いのにもかかわらず、広重が石部宿として目川の立場(たてば)を描いたのは、「東海道名所図会」を参考にしたからだと考えられています。
「東海道名所図会」巻之二の挿絵「目川」(下写真)を見ると、茶屋の構造や歩く旅人たちなどが描かれていますが、広重の絵も、それとほぼ同じように描かれています。
また、「目川」の挿絵は左側にありますが、そのすぐ右に石部宿の説明が書かれています。このため、広重は、左側の挿絵が石部宿の挿絵だと勘違いし、そこで、保永堂版「東海道五十三次」で石部宿を描くにあたって目川を描いたのだろうと考えられています。
ただ、「東海道名所図会」を参考にしつつもやや低い視点で描くように変えたり、「東海道名所図会」には描かれていない右手の二人連れや背景の山々を描くなりしています。遠景の山々ですが、比良山地という説もあるようなので、栗東歴史民俗博物館に問い合わせてみましたが、不明との回答でした。
旅人二人連れは、これを描くことにより、見る人の視線を右手に導く効果をねらったものとも考えられています。

草津(名物立場)
目川の立場(たてば)を過ぎると、間もなく草津宿です。
草津宿は、東海道と中山道が合流する交通の要衝です。
広重は、草津宿の中心でなく、描いているのは、大津宿に向かう「矢倉の立場」で、名物の姥(うば)が餅を売っている茶屋です。よくみると「うばもちや」の看板が掲げられています。
この店は東海道から矢橋(やばせ)の船着き場への分岐点に立っています。 絵の右手に見える道標から画面奥へ向かう道を歩いていくと船着き場に行きます。大津と矢橋をつなぐ渡し舟があり、東海道を通行する旅人はしばしば利用したようです。
また、この茶屋は大きな造りで、身分の高い武家は、庭を眺めながら姥が餅を食べることもあったようです。この絵で画面左手に庭の一部が描かれ、立てかけられた長鑓(やり)がありますので、武家の客のいるのでしょう。
また、茶屋の手前は東海道で、そこには5人がかりで大津方面へ街道を急ぐ早駕籠と逆方面に向かう荷物を担ぐ4人の人足が描かれています。

広重が旅人たちでにぎわうこの店を、草津宿として取り上げたのは、 やはり「東海道名所図会」を参考にしたからだと言われています。
同書巻之二にある茶店の光景(下写真)に対して、広重はやや視点を低くして描いているものの、店内の様子など、元の挿絵をほほ踏襲しています。
また、前景の5人がかりの駕籠は、十返舎一九の「続膝栗毛』4編ロ絵から採られたのだそうです。


