草津宿(広重『東海道五十三次』31)
前回は、広重の石部と草津をご紹介しましたが、今日は、現在の草津宿についてご案内します。
草津は、前回書いたように東海道と中山道が合流する宿場ですので、その合流点はどのようになっているのかというのは昔から興味がある点でしたし、旧本陣が残されていることから 機会があれば訪ねてみたいと思っていましたが、たまたま3年前に所用があったのを幸いとして草津宿を訪ねましたので、その時の写真を利用して、草津宿をご案内します。なお、写真は3年前のものであることをご容赦ください。
草津追分
JR草津駅は、東海道ではなく中山道に近いところにあります。降りて駅前を200mほど直進すると中山道と交差します。この中山道に沿って南に歩いていくと草津追分になります。草津駅から約10分で到着します。
旧草津川のトンネルを越えた先が、東海道と中山道の分岐点(追分)です。
ここで、中山道は一直線ですが、東海道は直角に折れて東に向かっています。
この追分に石造の道標が残されています。
文化13年(1816)に飛脚仲間によって寄付されたもので、東海道側に「右 東海道いせみち」、中山道側に「左 中仙道美のぢ」と刻まれています。下写真は中山道側からみた道標です。

道標の上部にある火袋は、現在は木製ですが、当時は銅製であったと記録されているそうです。
この草津追分の道標に行く際に潜るトンネルは、旧草津川が天井川であったため、旧草津川を潜るために作られたトンネルです。
下写真は追分の道標側から見た旧草津川です。トンネルの上を旧草津川が流れていました。写真右側にあるのが道標です。直線の道路が中山道で奥が草津駅方面です。東海道は道標の手前を右に曲がって進みます。東海道と中山道の追分は、Y字形でなく、T字形となっています。

草津川は典型的な天井川として知られています。江戸時代から川底に土砂がたまり、段々川底が高くなりついに周辺より高い天井川となってしまいました。そこで、明治19年になって、天井川をくぐるためのトンネルが作られました。それまでは、草津川の堤防を上り草津川を渡っていました。ちなみに、JR東海道線や国道1号線も旧草津川をトンネルで潜っていました。
天井川であった草津川はたびたび氾濫し周辺に大きな被害を与えてきました。そこで、新たに草津川放水路を掘削し、流路を変える工事が行われ、平成14年に工事が完成し、新草津川が誕生しました。そして、旧草津川は廃川となり、私が訪ねた頃には、その跡地の整備工事がされていました(下写真)。

現在は、「草津川跡地公園」として、レストランもある公園となっているとのことです。
草津宿本陣
追分道標から30mの旧東海道に面した地点に、木造瓦葺平家建の草津宿本陣があります。本陣の主要部は享保3年(1718)に膳所藩主本多家の「瓦の浜御殿」を移築したものだそうです。
東海道から向って左に表門、玄関、上段の間、家臣用の部屋等の客用施設があり、右側が本陣主人の店舗・居住部分となっていて、街道側には店舗・居室があり、客用施設との間には土間や台所があります。(下写真は外観全体写真です。手前が表門です。)

草津宿は、天保14年(1843)の記録によれば、家数586軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋72軒ありました。
草津宿の本陣は、江戸時代を通じて田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二つの本陣がありました。
そのうち、現存する草津宿本陣は、田中七左衛門本陣です。
田中七左衛門本陣は、寛永12年(1635)に田中七左衛門が本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。
材木商も営んでいたことから、江戸時代には田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていました。
本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所や公民館として使用されていましたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年に国の史跡に指定されました。

幕末の絵図等によれば、表間口14間半(約26.1m)、奥行き62間(約111.6m)、屋敷地1,305坪、建坪468坪で、建物は街道から向かって左側に休泊者のための座敷棟があり、部屋数は30室余りありました。上写真は、本陣の玄関です。表門から入ると正面にあります。
《玄関広間》
上記の本陣の玄関に入った広間に「関札」が並んでいます。(下写真)、なお、草津宿本陣の内部は、写真撮影が禁止されていますが、特別にお許しを得て本陣内を撮影させていただきました。

「関札」は、本陣に誰が休泊しているかを知らせるための札で、「札の下に書かれている文字には3種類あり、『休』はお昼休、『宿』は素泊まり、『泊』は食事付き宿泊を意味しているそうです。
《畳廊下》
上段の間に通じる廊下には、畳が敷き詰められているため、畳廊下と呼ばれています。本陣を利用する人数が多い時には部屋として使われていました。通常本陣には30~40人が宿泊しますが、畳廊下を利用すれば70人あまりを迎え入れることもできたといいます。下写真は、玄関脇から奥の上段の間の方向を写したものです。

《上段の間》
畳廊下を一番奥まで進んだところに上段の間があります。本陣で最も格式の高い部屋で、一行の主客が休んだり泊まったりする部屋です。天井は格天井となっていて、床の間・違い棚・書院が設置されています。
上段の間は、三部屋となっていて、上段の間、上段相の間、向上段の間と並んでいます。下写真は、向上段の間から撮った上段の間です。

本陣は、お客が休泊する部分と本陣の主人田中家の居住部分が一緒になっています。下写真はその間にある台所土間を撮ったものです。左手が休泊部分で、台所には、五連式のかまどなどが残されています。

うばがもちや本店
広重の「草津」に描かれていた「うばがもちや」は、東海道と矢橋の船着き場へ通じる矢橋道の分岐点にありましたが、現在は、国道一号線に面してドライブインのような形で現在も営業しています。

追分道標から、旧東海道を東の目川方面に向うと国道1号線と出会います。
その1号線沿いに歩いていくと「うばがもちや本店」が見えてきます。 下写真は外観です。

「うばがもち」は、織田信長に滅ぼされた佐々木義賢一族の遺児を託された乳母が養育のために売ったのが始まりと云われています。 永禄12年に佐々木義賢(六角義賢ともいいます)は織田信長に滅ぼされました。義賢は滅ぼされた際、3歳になる義賢の曾孫を心より託せる人がいなかったので、乳母である「福井との」に貞宗の守刀を授け、後事を託しました。
乳母「との」は、郷里の草津に身を戻り、幼児を抱いて住来の人に餅をつくって売り、養育の資として質素に暮らしました。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「うばがもち(姥が餅)」と呼んだといいます。

そして、そのうわさは徳川家康にまで届き、家康が大坂の陣に向かう頃には、「との」は84歳となっていましたが、「うばがもち」を献上しました。家康は「これが姥が餅か」と聞きつつ「との」の誠実な生き方を称え、「養老亭」の三字額を授けたと「うばがもちの由来」に書いてあります。その額がどうなったかまでは残念ながら書いてありませんでした。
「うばがもち」は、草津産のもち米でつくった餅をこし餡で包み、頭部に、白餡と山芋の練り切りをのせてあります。
下写真は、「うばもちや」でいただいたものです。ほんのりした甘さの餡とやわらかな餅で、やはり名物という味でした。お土産もありました。(上写真)


