大津・京(広重『東海道五十三次』32)
5月4日から書き始めた歌川広重が描いた保永堂版「東海道五十三次」ですが、4か月かかりましたが、32回でついに最終回を迎えることになりました。
今日は、東海道五十三次の53番目の宿場大津、そして、保永堂版「東海道五十三次」では55番目となる「京師」について書いていきます。
大津(走井茶店)
江戸時代の大津は東海道の宿場町である一方琵琶湖の水上交通の要でもあり、交通の要衝として栄えました。
広重は、大津の宿場を描くのではなく、大津宿を出て京都に向かい、 逢坂山を越えて坂を下ったところにある茶店を描きました。これが副題の「走井茶店」です。
ここの茶店では、湧き出す清水で名物の走井餅がつくられ、旅人に売られていました。
茶店の前にすごい勢いで湧き出ている水が走井です。清水が走り出るように湧き出ているためこの名がついたといいます。昔から名水として知られていました。ここの水はとても冷たいものだったのでしょう。絵の中でも魚屋が、盤台の魚を冷やしてします。
広重は、保永堂版で「石部」「草津」「大津」と連続して 名物を商う茶店を描いています。
広重が、京都に近い宿場では、旅人に名高い名物を売るお店を連続的に描いているのは、江戸の人々の京都や旅へのあこがれに応えるためだと考えられています。

広重は、この絵を描くにあたって「東海道名所図会」を参考にしています。
「東海道名所図会」の挿絵が下の画像ですが、この絵とよく似ていることがわかります。
茶店の様子、店番をしている女性、そして店先の井戸(これが走井です)やその脇の魚売りなど、多くの部分が「東海道名所図会」と似ています。
その一方で、茶店の前を通り過ぎる牛車は、「東海道名所図会』にはありませんので、広重が描き加えたものです。上方では、江戸より牛車が多く利用されていたため、ここに書き加えたのでしょう。これにより、上方に近づいたと江戸の人は感じたことでしょう。先頭の牛車に米俵が積まれ、その後の2台には薪が積まれています。

走井茶屋は、明治になって廃業し、その跡は、日本画家橋本関雪の別邸となったのちに、現在は月心寺となっていますが、現在でも走井は月心寺に残こされているそうです。
この湧水を利用して作られたのが「走井餅」です。
「走井餅」は、明和元年(1764)に、初代井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まりとされています。しかし、大津にあった井口家本家は、明治の頃に廃業してしまいましたが、その伝統が、現在は石清水神社のふもとにある「やわた走井餅本舗」へ引き継がれています。
石清水神宮の麓にある「やわた走井餅本舗」は、明治43年に6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎によって開業したものです。同社のホームページによれば「当家が直系唯一の走井餅」だそうです。

「走井餅」の 刀の荒身を模した独特の形は、平安時代に名を馳せた刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、剣難を逃れ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられているそうです。甘みを抑えた上品な味でした。

京師(三条大橋)
広重は、京都を描くにあたって、東海道の終着点である三条大橋を描いています。
広重が描く三条大橋は、鴨川の北西方向から、三条大橋を手前に描き、その奥に描かれているのが東山です。さらに、その奥に描かれているは比叡山という説もありますが、実際の比叡山はこの方角にありませんので、もし、これが比叡山であるとすれば、広重の間違いか、あるいは間違いを承知してあえて描いたかいずれかでしょう。

この絵も「東海道名所図会」巻之一の挿絵「平安城 三条橋」をもとにして描いてあります。(最下段写真)
「東海道名所図会』は髙い視点で鴨川に架かる三条大橋とその向こうの東山が描かれていますが、広重はそれよりも視点を低くして描いています。
「東海道名所図会』の挿絵には名所の地名が書き込まれています。
それによると、東山の中腹に青い屋根があります。これは清水寺だと書いてある解説書もありますが、「東海道名所図会」を見ると、清水寺の右手に八坂の塔が書かれています。しかし、保永堂版では、八坂の塔が、左手に描かれているので、「東海道名所図会」と比べると、これは東大谷(親鸞の墓所、現在は大谷祖廟と呼ばれています)ではないかと思います。その右下に塔が見えますが、これが八坂の塔です。
画面左手の山裾に見える大きい青い屋根が知恩院です。画面中ほどの青い屋根は「東海道名所図会」には雙林寺((そうりん)じ)と書かれています。
「東海道名所図会」では、橋を行き交う人物の様子ははっきりしませんが、広重は、橋を行き交う人々を丁寧に描いていますが、茶筅(ちやせん)売りや 被衣(かずき)の女たちが描かれています。


