「東海道中膝栗毛」とはどんな本? (「東海道中膝栗毛」を読む①)
歌川広重が描いた保永堂版「東海道五十三次」の連載が終わりました。
この連載を書いていると、保永堂版「東海道五十三次」の多くの解説書の中で「東海道中膝栗毛」もしばしば引用されていることがわかりました。
そのため、東海道五十三次を語る場合には、保永堂版「東海道五十三次」とともに「東海道中膝栗毛」も欠かせないものだということを改めて実感しました。
そこで、広重『東海道五十三次』に続いて、「東海道中膝栗毛」を読んでいこうと思います。読むといっても全文を書くのはとてもできる話ではありませんので、あらすじを書いていく程度となりますが、これを読んでいただければ、「東海道中膝栗毛」がほぼ理解できるという程度までは書いていきたいと思います。
今日は初回ですので、「東海道中膝栗毛」という本はどんな本なのかまず説明したいと思います。
「東海道中膝栗毛」は、いうまでもありませんが、十返舎一九が書いた弥次郎兵衛と喜多八の二人を主人公とする東海道の道中記です。
下画像は、発端(はじまり)編に描かれた弥次郎兵衛(右)と喜多八(左)です。
二人の旅の目的はまず「お伊勢参り」です。そのため、東海道を西に向かい、四日市で東海道に別れをつげて伊勢神宮へお参りします。その後、大和を経由して、京都見物をして、大坂に至るまでが描かれています。
「東海道中膝栗毛」の初編は、享和2年(1802)に村田屋治郎兵衛から出版されました。
現在では、「東海道中膝栗毛」で呼ばれていますが、初編の書名は、「浮世道中膝栗毛」でした。第二編は「道中膝栗毛後篇」となっています。そして第三篇でようやく「東海道中膝栗毛」となりました。
このように、当初の本の題名が一定していなかったのは、初編を出版する段階では、売れ行きがどうなるかまるでわからないので、版元も期待していなかったが、第三篇の頃になると、売れ行きが好調となり、このまま東海道を弥次喜多に旅させて大坂まで行かせようと考えたためであると「日本の文学古典編『東海道中膝栗毛』」(校注:武藤元昭、ほるぷ出版)に書かれています。
享和2年(1802)刊の「東海道中膝栗毛」は大好評となり、下記のように次々と続編が出版されました。
享和3年(1803)「浮世道中膝栗毛後編上下」(箱根から岡部まで)
文化元年(1804)『東海道中膝栗毛 三編 上下』(岡部から新居まで)
文化2年(1805)『東海道中膝栗毛 四編 上下』(新居から桑名まで)
文化3年(1806)『東海道中膝栗毛 五編 上 下 追加』(桑名から山田まで、追加は伊勢参宮)
文化4年(1807)『東海道中膝栗毛 六編 上下』(伊勢から京都見物)
文化5年(1808)『東海道中膝栗毛 七編 上下』(京都見物)
下写真は、京都の三条大橋の西詰にある弥次さん喜多さんの銅像です。
以上お分かりになるように年に一度出版されるというペースになりました。
そして、ついに、文化6年(1809)『東海道中膝栗毛 八編 上中下』が出版され、大阪を見物して弥次喜多の旅が無事終わりました。初版から足掛け10年かかったということになります。
ここで、この後は、弥次さん喜多さんは中山道を通って江戸に帰る予定でした。
実際に十返舎一九は、8編下の最後に「路用十分にもたせ、大坂を出立させけるゆえ、此たびは木曾路にかかり、草津の温泉に一回りあそび、善光寺へまわり、妙義は留那(榛名)へ参詣し、めでたく帰国したりける。」と書いています。
しかし、大勢の読者が、弥次喜多の更なる道中記を希望したため、十返舎一九はさらに続編の『続膝栗毛』シリーズを書くこととなり、弥次喜多は、金比羅、宮嶋まで訪ねることとなり、その後に、木曾、善光寺、草津温泉、中山道を旅して江戸に帰ることになりました。
そのため、次のように「続膝栗毛」が毎年出版されました。
文化7年(1810)『続膝栗毛 初編上下 金比羅参詣』
文化8年(1811)『続膝栗毛 二編上下 宮嶋参詣』
文化9年(1812)『続膝栗毛 三編上下 木曾街道』
文化10年(1813)『続膝栗毛 四編上下 木曾街道』
文化11年(1814)『続膝栗毛 五編上下 木曾街道』
文化12年(1815)『続膝栗毛 六編上下 木曾街道』
文化13年(1816)『続膝栗毛 七編上下 木曾街道』と『続膝栗毛 八編上下 従木曾路善光寺道』
文政2年(1819)『続膝栗毛 九編上下 善光寺道中』
文政3年(1820)『続膝栗毛 十編上下 上州草津温泉道中』
文政4年(1821)『続膝栗毛 十一編上下 中山道中』
文政5年(1822)『続膝栗毛 十二編上中下 中山道中』
こうして、「東海道中膝栗毛」は初編が出版されてから完結するまで21年もかかっています。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」が完結まで足かけ29年かかっていますので、それに次ぐ長さということになります。
それだけ、読者に受け入れられたということです。
読者の人気が高かったことは、弥次喜多はどんな生い立ちか知りたいという疑問に答える「発端(はじまり)編」が、文化11年(1814)に出版されたことでもわかります。