「発端(はじまり)」(「東海道中膝栗毛」2)
「東海道中膝栗毛」のあらすじを書いていきます。今日は、まず「発端(はじまり)」について書いていきます。
「発端(はじまり)」は、弥次郎兵衛や喜多八の氏素性や伊勢・京・大坂に向けて旅立った経緯が書いてあります。
ところで、江戸文化歴史検定の最初の1級の問題に次のような問題が出題されました。
弥次さんと喜多さんの珍道中をおもしろおかしく描いた名作『東海道中膝栗毛」は、江戸時代を代表する文芸作品です。この滑稽話は、2人が駿府の町で知り合い、やがて出奔するところから始まっています。では、作者である十返舎一九は、このときの2人の間柄をどのように設定しているでしよう?
い)恋敵 ろ)幼馴染 は)衆道 に)博奕仲間
江戸検1級を受検するまで、どういう問題が出題されるのか皆目わかりませんでしたので、試験会場で上記の問題を最初に見た時、正直「こんな問題が出るのか?」と驚いた記憶が今でも鮮明に残っています。私は、正解が全くはわかりませんでした。
この正解は、「東海道中膝栗毛」の「発端(はじまり)」を読むとわかります。
(下写真は、「発端(はじまり)」の中の挿絵です、弥次郎兵衛と喜多八と思われる二人が旅している様子です。)
弥次郎兵衛と喜多八の生い立ち
弥次郎兵衛は、駿州府中(駿府)の商家栃面屋に生まれました。栃面屋は、親の代から、百両や2百両はいつでも自由になる駿府で相応の商人でした。
お金があることから、弥次郎兵衛は、駿府の遊郭安部川町で遊び尽くしました。さらに、旅役者の華水多羅四郎(はなみずたらしろう)一座の鼻之助という若衆に夢中となり、散財し尽くしました。そして、ついには、身代に大穴をあける事態となってしましました。
そのため、弥次郎兵衛は、夜逃げ同様に鼻之助と二人で府中を逃げ出しました。
そして、二人は江戸へ着き、神田八丁堀の裏長屋に住み始めました。最初のうちは貯えがあったので、うまい料理や酒を呑んでいましたが、ついに有り金がなくなり、弥次郎兵衛は、一緒についてきた鼻之助を元服させ名前を喜多八と改めさせ、しかるべき商家に奉公させました。
以上のあらすじでわかるように、弥次郎兵衛は駿府の相応の商家の息子でしたが、遊びが過ぎて、男色にまで手を出すこととなり、その相手となったのが鼻乃助(のちの喜多八)でした。つまり、上記の問題の正解は、は)ということになります。
東海道旅立ちの経緯
喜多八を奉公に出したあと、弥次郎兵衛は、府中時代に覚えたあぶら絵を描いたりして何とか暮らしていましたが、嫁の世話をする人がいて、「おふつ」という御屋敷に奉公していた女性を嫁にもらいました。最初のうちはつつましやかに暮らしていましたが、そのうち、自堕落な生活に舞い戻ってしまいました。
一方、奉公に出た喜多八は、商才があったのか奉公先の主人に気に入られ、小金が自由になる身分となりました。そうなると、つい遊びを覚えるようになり、お店のお金を使い込んでしまいました。
喜多八は、使い込みがバレないようにするため、弥次郎兵衛に15両の用立てを申し入れてきます。そのため、喜多八を助ようとする弥次郎兵衛が、いろいろ算段する話が、この「発端(はじまり)」の中心として書かれています。
その部分は、長くなるので、簡単に書きます。
喜多八から依頼された、弥次郎兵衛は、15両を工面するために、15両の持参金付の女と結婚しようとします。そのため、一芝居をうち、まず女房を離縁します。そして持参金付の女がやってきますが、この女は、喜多八が孕ませた同じ店の飯炊き女「おつぼ」で15両の持参金という話もウソでした。
このことがわかり怒った弥次郎兵衛が、喜多八と喧嘩を始めますが、その最中に飯炊き女が急死してしまいます。そこで、その葬礼の相談をしている最中、今度は、喜多八が奉公先から解雇を言い渡されます。
こうして、女房を離縁した弥次郎兵衛、子供を孕ませた女が亡くなってしまったうえにお店を解雇された喜多八の二人は、運直しに二人連れで出かけようという相談がまとまりお伊勢参りの旅に出立することになりました。
これが、二人が東海道を旅するきっかけです。
この「発端(はじまり)」は、弥次郎兵衛は、喜多八の悪だくみで女房を離縁するはめとなり、喜多八は妊娠させてしまった女性が亡くなってしまうという後味の悪いエンディングとなっています。
この「発端(はじまり)」は、前回書いたように文化11年に出版されたものです。読者から、弥次喜多の生い立ちや旅のきっかけはなにか知りたいというニーズにこたえるため「発端(はじまり)」が追加で書いたと言わています。本編の「東海道中膝栗毛」は、既に金毘羅参詣まで進んでいましたので、とうせ書くなる、明るい話で弥次喜多のお伊勢参りが始まったほうがよいと、私自身は感じましたが、十辺舎一九には、それなりの考えがあったのでしょう!