江戸から戸塚まで(東海道中膝栗毛③)
今日から、「東海道中膝栗毛」の本編のあらすじを書いていきます。
最初に、あらすじを書くにあたって、参考にする本を紹介しておきます。
まず、基本とするのが、岩波現代文庫「現代語訳 東海道中膝栗毛(上)(下)」です。「東海道中膝栗毛」現代語訳をうたった本が数多く出版されていて、中には著名な作家が現代語訳したものもあります。その多くは、「東海道中膝栗毛」の全文を現代語訳したのではなく、一部分を現代語訳したものです。それはそれでいいのですが、全体のあらすじを書くにあたっては不適切です。
その点、岩波現代文庫「現代語訳 東海道中膝栗毛(上)(下)」は、全文を現代語訳していますので、「東海道中膝栗毛」全文を読むには、こちらが良いと思っています。
さらに、岩波クラシックス「東海道中膝栗毛(上)(下)」と日本古典全集「東海道中膝栗毛」(小学館)は原文で書かれていますので、必要に応じて、こちら参照していきます。
弥次さん喜多さんは、東海道の四日市まで行って、そこで東海道に別れをつげて、伊勢街道を通って伊勢まで行っています。
そこで、このあらすじの解説は、とりあえず東海道部分だけについて、一日単位で説明していこうと思います。そして、江戸時代の旅に関する諸知識の説明も随時追加していきたいと思います。
それでは、東海道中膝栗毛の旅の解説を始めます。
「東海道中膝栗毛」(正しくは「浮世道中膝栗毛」)初編は、享和2年(1802)に出版されました。この初編では、江戸から箱根までの道中が書かれていて、途中、戸塚と小田原に宿泊しています。
1日目は江戸を立って戸塚で泊まりました。宿泊地までの解説としますので、今日は、江戸から戸塚までの道中あらすじを解説していきます。
【1日目のデータ】
①出発地 江戸
②宿泊地 戸塚
③通過した宿場 品川→川崎→神奈川→保土ヶ谷→戸塚
④休憩場所 川崎、神奈川
⑤出発地から宿泊地までの距離 41.1キロメートル
【道中のあらすじ】
①江戸から品川まで
江戸の神田八丁堀の自宅を発った弥次さん喜多さんですが、何時に経ったかは書いてありませんが、日の出前には、自宅を出ているものと思います。
高輪では「高なはへ来てわすれたることばかり」という川柳があるけれど、二人には、家にあるもので売れるものは売り、隣近所で利用できるものはやってしまったので、何の憂いもないもなく高輪を過ぎていきます。
品川では、「海辺をばなどしな川といふらん」「さればさみずのあるにまかせた」などと謎かけ問答をしながらのんびり通りすぎていきます。
下絵は、「東海道中膝栗毛」の挿絵で品川を描いたものです。
十辺舎一九は絵も得意で、「東海道中膝栗毛」の挿絵のほとんどを自分で描いています。この絵を拡大すると「自画」と書いてあります。
②品川から川崎まで
そして、六郷川を越えて、川崎の万年屋で休憩し、名物の「奈良茶飯」を食べています。おそらく、遅い朝飯か、早い昼飯でしょう。
ここでは、床の間に掛った「鯉の滝登り」の絵をみて、喜多さんは、鮒がそうめんを喰っていると勘違いしています。
③川崎から神奈川まで
万年屋で一休みした二人は、街道で大名行列と出会い、奴の品定めをしながら、行列が過ぎるのを待って歩き始めると宿外れで戻り馬の馬子から声を掛けられ、200文で馬に乗ることにして神奈川の台町までやってきました。神奈川の台町の茶屋は、海側に一列に並んでいて,2階建の建物で、座敷は2階にあり、欄干もあって、波打ち際の景色がきれいでした。弥次さんと喜多さんは、茶屋の女の呼び込みに応じてここでも一休みします。
④神奈川から保土ヶ谷まで
台町の茶屋を出ると奥州からの抜け参りの子供と同行となります。弥次さんが当てずっぽうに男の子の故里の話をするとその子供はすべて「その通りです」と肯いてくれました。
うれしくなった弥次さんは、お腹がすいた子供から餅を買って欲しいとねだられて、言われるがままに餅を買ってあげます。するとその話を聞いた連れの子供からも「俺にも餅を買ってくれ」と声を掛けられました。そこで弥次さんが奥州の話を始めようとすると「餅を先に買ってくれ。そうすれば、すべて言うことがあたる」と言われて、弥次さんもあいた口がふさがりませんでした。
⑤保土ヶ谷から戸塚まで
保土ヶ谷の宿場に着くと、客引きをする留め女が宿泊するよう盛んに旅人を勧誘しています。
弥次さん喜多さんは、これらの勧誘を遠目にみながら戸塚の宿に急ぎます。
この様子をみて、弥次さんが詠んだ狂歌が次の歌です。
「おとまりは よい保土ヶ谷と とめ女 戸塚前(とつかまえ)ては はなさざりけり」
十辺舎一九が弥次さんにこんな狂歌を詠ませるのですから、おそらく、保土ヶ谷宿の留め女は有名だったのだと思います。
江戸を朝早く発った旅人の多くは、程ヶ谷を通り越して戸塚で泊まりました。そこで、保土ヶ谷の旅籠は、なんとか旅人を程ヶ谷に宿泊させたいと考えて、強引な留め女の客引きがあったのではないでしょうか。
保土ヶ谷を過ぎると品野坂にさしかかりました。ここが武蔵国と相模国の国境(くにざかい)でした。
そこで、次の歌を詠んでいます。
「玉くしげ ふたつにわかる国境 所かわれば しなの坂より」
⑥戸塚宿泊
戸塚に入ると、弥次さんが、これから二人が親子に成り済ますのが良いという言い出して、弥次さんが父親、喜多さんが息子ということにして旅籠を探します。しかし、どこの旅籠も貸切となっていて、宿場の外れでようやく泊まれる旅籠を見つけ、そこに泊まることにします。
【宿泊した旅籠での出来事】
二人が宿泊することにした旅籠、本日開店という旅籠であったため、部屋の空きがあったようで弥次さん喜多さんラッキーでした。
しかも、そこの主人は、開店初日ということから、非常に気前がよく、酒も只で飲ませてくれました。
親子という触れ込みで泊まったため、旅籠の女中も相手になってくれず、東海道中膝栗毛の初日は、何事もなく、静かに眠ることができました。
【道中の名物】
弥次さん喜多さんは、川崎の万年屋で「奈良茶飯」を食べています。
奈良茶飯は、江戸時代初期の「本朝食鑑」によれば、奈良の東大寺・興福寺の僧が始めたもので、濃い茶を煎じて塩を入れ、米を炊いたものに、炒り大豆、炒り黒豆、焼き栗などを混ぜ合わせて、濃いお茶に浸したものです。
江戸前期には、江戸の浅草寺境内にも、奈良茶飯の店があったことが井原西鶴の「西鶴置土産」に書いてあります。
川崎では、万年屋が大変有名でした。「江戸名所図会」にも「河崎万年屋奈良茶飯」というタイトルで、見開きの挿絵が載っています。(下画像)
現在は、万年屋は残っていません。しかし、2014年に川崎市内の和菓子店「川崎屋東照」が再現してくれました。
ただし、「奈良茶飯風おこわ」となっていますので、昔の「奈良茶飯」ではなく「おこわ」のようです。
下写真は、以前、川崎を訪ねた際に、お店の外から撮影した「奈良茶飯風おこわ」です。