江戸の旅情報①(「東海道中膝栗毛」4)
「東海道中膝栗毛」を丁寧に読んでいくと、江戸時代には、“一般庶民がどのような旅をしたか”や“東海道五十三次の様子がどうだったか”がわかります。
そこで、江戸時代の旅の姿や東海道五十三次の様子を知っていると、「東海道中膝栗毛」がより楽しく深く読めると思いますので、江戸時代の旅の姿や東海道五十三次の様子なども、随時、解説していきたいと思います。
前回は、弥次さん喜多さんの一日目のあらすじを紹介しましたが、ここにも、いろいろな旅・東海道の様子が書かれていますので、気が付いたことを、順に説明していきます。
1、往来手形と関所手形
弥次さん喜多さんが江戸を出発する前に、二人は、神田八丁堀の長屋を処分します。
その際に、檀那寺には、いつもはお布施が少ないので100文をはずんで往来手形を発行してもらいます。また、大家には、古くからの借金をすべて支払って関所手形の手配をしてもらいます
つまり、弥次さん喜多さんは、旅立つにあたって、お布施をしたり借金を返済するなど少し無理して往来手形と関所手形を準備しています。
往来手形は、江戸時代の旅行者の旅行許可書もしくは身元証明書で,普通には旅行する人の檀那寺(だんなでら)あるいは村の庄屋・名主が発行し、時には代官などが発行するケースもありました。
往来手形には旅行者の氏名・年齢・居住地・檀那寺や旅の目的が記され、旅行中の死亡した場合の葬り方まで書いてある場合もあります。
往来手形は関所手形として利用されることもありました。
一方、関所手形は、関所の通行許可証のことで、関所で重点的に調べられたのは「入り鉄砲」と「出女」でしたので、関所手形として重要なものは鉄砲手形と女手形でした。
男性の場合には、特に関所手形を用意せずに往来手形でも関所を通行できることもありました。
しかし、弥次さん喜多さんは、往来手形と関所手形の両方を準備しています。
この点が疑問でしたので、新居関所史料館に尋ねました。
学芸員の方は、弥次さん喜多さんが往来手形と関所手形を準備していたことをご存知でした。その上で、「弥次さん喜多さんのように、男性の場合、両方を準備するケースが全くないわけとはいえないが、関所手形まで準備するケースは少なく、往来手形だけを準備する人が多かったと思います」と教えてくれました。
2、抜け参り
神奈川を出た後、弥次さん喜多さんは、奥州からの抜け参りの少年二人と一緒になりました。
この「抜け参り」というのは、親や主人また村役人の許可なしに家を抜け出し、往来手形を持たずに、伊勢神宮に参拝することを言います。
抜け参りの者には道中どこでも金を貸してくれましたので、お金がもたなくても伊勢神宮までたどりつくことができました。そして帰ってから怒られることもありませんでした。
3、旅籠代
保土ヶ谷で、留女が「宿代は200文」と話して客引きをする場面があります。
宿場には、大名などが宿泊する本陣・脇本陣のほか、一般の旅行者が泊まれる旅籠や木賃宿がありました。木賃宿は、食事の材料は旅行者が準備し、木賃(薪代)だけを支払う宿屋のことを言います。一方、旅籠は、武家や一般庶民が宿泊する食事付きの宿屋で、宿屋が食事を調理し提供してくれました。
元々、「旅籠」とは、馬の飼い葉(まぐさなどの飼料)を入れた竹籠を指しました。宿屋の前に馬の飼料をいれる「旅籠」をぶら下げていたことから、食事付きの宿屋を旅籠と呼ぶようになったようです。
江戸時代後期の宿泊料金は、留女が言っているように200文が相場でした。
江戸時代の百科事典「守貞謾稿」によると「安政以前、東海道上旅籠200銭、中山道148文」と書いてあります。岩波文庫「近世風俗史(1)」では、p218に書いてあります。
江戸時代の1文が現在の25円(=4文で100円)とすると200文は5千円となります。現在では安いホテルでも2食付きですと9千~1万円するでしょうから、現代よりはかなり安かったように思います。
4、武蔵国と相模国の国境(くにざかい)
現在の神奈川県は、江戸時代は二つの国つまり相模国と武蔵国に分かれていました。神奈川県は相模国単独だったと思っている人にとっては意外な事実だと思います。
ちなみに、現在の川崎市は、全区域が武蔵国でした。そのため、川崎と立川を結ぶ南武線の駅名には、「武蔵小杉」「武蔵中原」「武蔵溝ノ口」など「武蔵」という国名が付されています。また、横浜市は、その大部分が武蔵国でした。
それでは、武蔵国と相模国が東海道上では、どこかということですが、「東海道中膝栗毛」で書かれているように、保土ヶ谷宿を出て戸塚宿に行くまでの間が国境(くにざかい)でした。
従って、東海道五十三次では、保土ヶ谷宿までが武蔵国、戸塚宿より西が相模国ということになります。
ところで、「東海道中膝栗毛」では、品濃坂が国境と書いてありますが、東海道の解説本では、多くの本が、品濃坂より保土ヶ谷宿寄りにある「境木地蔵尊」の辺りが国境としていて、品濃坂を国境(くにざかい)とするものはありませんでした。
そこで、「江戸名所図会」を調べてみると、「品野坂」というタイトルで「俗に、権太坂と呼べり。この地は、武相(武蔵国と相模国)の国境(くにざかい)たり。坂路の両傍には、蒼松の老樹左右に森烈たり。坂の上にて右を望めば、芙蓉の白峰玉けづるがごとく、左を顧(み)れば、鎌倉の遠山翠黛(えんざんすいたい)濃(こま)やかにして、実に、この地の風光また一奇観と称すべし」と書いてあります。一応、品濃坂が国境としてますが、品濃坂を「俗に権太坂と呼べり」と書いていて権太坂と混同していないかという疑問がないではありません。
一方、「境木」として次のような挿絵があり、「武蔵・相模の境なるゆえに、傍示の杭をたてられるゆえにこの名あり」と説明されています。
また、現在、「境木地蔵尊」前の歩道に下記写真のように「武蔵国境之木」の標柱が建てられています。なお、この写真は、東海道を歩いている千住のSさんのご提供です。
そこで、横浜市歴史博物館に問い合わせると、学芸員の方は、「境木地蔵尊辺りが国境(くにざかい)です」と教えてくださいました。
以上から、境木地蔵尊周辺が国境(くにざかい)であることは確かだと言えます。
その一方で「東海道中膝栗毛」で書かれている品濃坂が武相の国境(くにざかい)かどうかはまだ確認できていません。
【9月12日追記】
「江戸名所図会」の品野坂にも、武蔵国と相模国の国境と書いてあることについて、再度、横浜市歴史博物館に問い合わせたところ、「現在は、東京方面から行って、上り坂が権太坂、下り坂が焼餅坂、品濃坂と明確に区分けしていますが、江戸時代は、上り坂も下り坂も含めて、すべてを品野坂と呼んでいたのではないでしょうか。江戸名所図会に書いてある品野坂は、現在の品濃坂だけをいうのだはなく権太坂も含めて説明しているものと思います」という回答でした。
また、国立国会図書館のデジタルコレクションで見られる「国郡全図」に載っている「相模国図」では、東海道の道筋で、武蔵国との境に「シナノ坂」と書いてあり、「武蔵国図」でも、相模国との境に「シナノ坂」と書いてあります。江戸時代には、現在の権太坂もシナノ坂と呼ばれていた可能性が高いと思われます。
以上より、「東海道中膝栗毛」で品濃坂を武相国境としていることは間違いではないと私自身は納得しました。
なお、大田南畝の「改元紀行」を読んでいたら、「改元紀行」にも、境木村の立場にある地蔵堂が武相国境であると書いてありました。