戸塚から小田原まで(東海道中膝栗毛⑤)
「東海道中膝栗毛」で、弥次さん喜多さんは、2日目には、戸塚を出発して小田原で宿泊しています。
そこで、今日は、弥次さん喜多さんの戸塚から小田原までの旅について書いていきます。
【2日目のデータ】
①出発地 戸塚
②宿泊地 小田原
③通過した宿場 戸塚⇒藤沢⇒平塚⇒大磯⇒小田原
④休憩場所 藤沢
⑤出発地から宿泊地までの距離 約40.3キロメートル
【道中のあらすじ】
①戸塚らから藤沢まで
戸塚の夜が明け、宿を出た弥次さん喜多さんは、大名行列に出会ったり、ちょんがれ坊主に一文めぐんでくれとせがまれた際に一文銭と間違えて四文銭をあげてしまったりしながら藤沢につきます。
②藤沢から平塚まで
藤沢宿の入口の茶店で一休みしていると60がらみの親爺に江ノ島までの道を聞かれます。聞かれた弥次さん喜多さんの二人は肝心な江の島までの道を案内しようとしますが、しばしば横道にはずれ、茶店の評判の話になってしまい、ついに親爺はあきれて、行ってしまいました。
藤沢宿では、駕籠屋に呼びとめられて駕籠にのり、馬入川に到着します。
③平塚から大磯まで
馬入川を渡り、西に向かう途中で、白旗神社で一首弥次さんが詠みます。
それから大磯に着いて、「虎が石」を見て、今度は、喜多さんが一首詠みます。さらに、負けじとばかり、弥次さんも詠みます。
こうして、平塚の宿を通り過ぎていきます。
④大礒から小田原まで
大礒では、鴫立つ沢では、西行像を安置する草堂にお参りして、ここでも一首詠んでいます。
道中、あまりにものどかなので、二人は謎かけをしながら小田原に向かいます。
橋が架かってなく渡し舟もなり酒匂川に差し掛かりますが、次の一首を詠みながら、酒匂川を越えています。
われわれは ふたり川越 ふたりにて 酒匂のかわに 〆(しめ)てようたり
酒匂川を越えると、そこには、もう小田原の客引が出張っています。そこで宿を建て直したばかりという宿屋の亭主と出会い、そこに泊まることとなりました。
【宿泊した旅籠での出来事】
小田原の宿屋での出来事は、喜多さんが五右衛門風呂を踏み抜いてしまう有名なエピソードです。ほとんどの現代語訳の本がこのエピソードを取り上げています。
小田原の宿のお風呂は五右衛門風呂でした。
五右衛門風呂の場合、風呂桶の底板は沸かす時には蓋として上に浮いていますので、入る時には、その板を踏み沈めて風呂桶の底とします。
五右衛門風呂の底は鉄板となっているので、そうしないと熱くては入れません。しかし、この五右衛門風呂は、関西で流行(はや)っていたため、江戸からきた弥次さん喜多さんにとっては初めての経験で、五右衛門風呂への入り方を知りませんでした。
そこで、弥次さんは風呂場を見まわして便所の側にあった下駄を履いて入ります。喜多さんも入り方を知りませんでした。弥次さんはいじわるをして風呂への入り方を教えませんでした。しかし、喜多さんも隠してあった下駄を見つけて、お風呂に入りますが、最後にお風呂で足踏みをして下駄で底を抜いてしまい、湯殿は水浸しとなりました。怒り心頭の宿屋の主人に対して、喜多さんは、南鐐二朱銀を払うことで納得してもらいました。とんだ散財となった喜多さんは、一晩中、しょんぼりでした。下画像は、「東海道中膝栗毛」に載っている挿絵です。なかなか出てこない弥次さんを待ちかねた喜多八が覗きに来た場面。五右衛門風呂に入っているのが弥次さんです。
【道中の名物】― 小田原の外郎(ういろう)
弥次さん喜多さんは、小田原で「透頂香ういろう屋」のお店の前までやってきます。
「ういろう屋」は、八ツ棟の屋根が名物のお店でしたが、弥次さん喜多さんもびっくりしています。二人は、「ういろう」とはお菓子だと思っていたようで、「これが名物のういろうだ」「ひとつ買ってみよう。うまいかな?」「うまいまずいのレベルでなくて、頤がおちるほどだ」「おや餅かと思ったら、くすりのお店だ」と、お菓子だと思っていたのに「透頂香調整所」と書いてあるのに気がついてびっくりしています。そして、次の狂歌を詠んでいます。
「ういろうを 餅かとうまく 騙されて こは薬じゃと 苦い顔する」
外郎(ういろう)は、小田原名産の痰切(たんきり)の薬です。
中国の元朝に仕え、大医院・礼部員外郎(いんがいろう)の役職にあった医師・陳宗敬(ちんそうけい)が、元朝が亡びた際(日本の南北朝時代)に、日本に帰化し官職名と間違えられないようにと役職名の読みを変えて「外郎(ういろう)」と名乗りました。その後息子の大年宗奇(たいねんそうき)が室町幕府三代将軍芦川義満に招かれ京都に移りました。宗奇は、遣明船に乗り中国に渡り、秘薬の製造法を日本に伝えました。
この薬は、天皇から「透頂香(とうちんこう)」の名前を与えられましたが、外郎(ういろう)家が作った薬であることから、「ういろう」と呼ばれるようになりました。
戦国時代になって、宋奇の孫・定治は北条早雲の招きで永正元年(1504)小田原に移り、それ以来, 外郎は、小田原名物となりました。
また、「ういろう」と呼ばれる菓子もあります。菓子の「ういろう」は名古屋が有名ですが、全国各地に「ういろう」を称する菓子があり、現在も小田原の「株式会社 ういろう」でも菓子の「ういろう」が売られています。菓子の「ういろう」は、大年宗奇が考案し使節の接待に用いたものとも、外郎薬を飲んだあとの口直しに食べたものとも、また薬と色が似ていたものともいわれる。
なお、「外郎」の「外」を「うい」と発音しますが、「うい」は唐音です。「唐音」というのは、唐代末期ないし宋代以降に日本にもたらされたもので,「行灯」の「行」を「アン」を読むのが、その例です。