江戸の旅情報②(「東海道中膝栗毛」5)
「東海道中膝栗毛」で、弥次さん喜多さんは、2日目は戸塚から小田原まで旅しています。今日は、そこに出てきた江戸の旅情報や東海道の名所などについて説明していきます。
1、ちょんがれ坊主と四文銭
弥次さんは、戸塚で「ちょんがれ坊主」に、一文銭と間違えて「四文銭」を投げてしまってあわてる場面があります。そこで、「ちょんがれ坊主」と「四文銭」について説明します。
まず、「ちょんがれ坊主」ですが、「ちょんがれ坊主」という言葉はききなれない言葉だと思います。この「ちょんがれ坊主」というのは、人家の戸口や路傍に立って、錫杖や鈴などを手にもって坊主姿で、「ちょんがれ節」という卑俗な文句をうたいこんだ歌を歌いながら、銭をめぐんでくれるようお願いした大道芸人です。
次いで、「四文銭」について説明します。
江戸時代の代表的な銭貨は、寛永13年(1636)に鋳造された寛永通宝です。
寛永通宝は、当初は一文銭だけでしたが、江戸時代後期の明和5年(1768)に四文銭が鋳造されました。この銅銭の裏側には波形の文様がありました。そのため、俗に「波銭」と呼ばれました。下写真は一文銭です。
形は、円形で中央に四角い穴があいていました。一文銭は直径が約2.3センチメートル、四文銭は直径約2.8センチメートルです。
大きさが、5ミリしか違わないため、弥次さんは、一文銭だと思って四文銭の方を投げてしまったのでしょう。
この寛永通宝は、江戸時代だけでなく、明治以降も通用しました。
江戸時代に鋳造された寛永通宝には、銅の一文銭、鉄の一文銭、真鍮の四文銭、鉄の四文銭の4種類があります。
明治4年に、銅一文銭は一厘に、真鍮四文銭は二厘で通用されるとされ、翌年には、鉄一文銭は16枚で一厘に、鉄四文銭は8枚で一厘に通用するとされました。
最終的に、寛永通宝が通貨として通用しなくなったのは、昭和28年のことです。
2、江の島詣で
藤沢の茶店で、弥次さん喜多さんは、旅の親爺から江の島への道順を尋ねられます。
藤沢宿から 里ほど南に行くと、江の島神社がありました。そのため、藤沢には、鳥居があり、以前ブログで紹介したように、歌川広重の保永堂版「東海道五十三次」にも描かれています。(下画像)
江の島神社(現在の表記は「江島神社」)の御祭神は、次の三姉妹の女神様です。
多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)
江の島神社には、奥津宮(おくつみや)・中津宮(なかつみや)・辺津宮(へつみや)があり、この女神は、それぞれ、奥津宮・中津宮・辺津宮にお祀りされています。
この三体の女神は、弁財天とされ、江の島弁財天として信仰されました。
辺津宮(へつみや)の境内の八角形のお堂奉安殿に、妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)と八臂弁財天(はっぴべんざいてん)とが安置されています。
妙音弁財天像は、裸弁財天とも呼ばれ琵琶を抱えた全裸の坐像で、日本三大弁財天のひとつとして有名です。ちなみに、「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江の竹生島、江の島に祀られている弁財天をいいます。
江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せました。
弥次さん喜多さんに道を尋ねて人物も、江の島詣でをする旅人ではないかと思います。
藤沢は、大山へ通じる大山道も分岐していました。そこため、江戸から大山に詣でて、その帰りに藤沢に出て、それから江の島弁才天にお参りするという大山詣でと江の島詣でをセットにした旅も盛んでした。
3、虎が石
弥次さん喜多さんは、大磯で「虎が石」を訪ねました。「虎が石」は大磯の延台寺にありました。「東海道中膝栗毛」では「虎が石」となっていますが、「東海道名所図会」では「虎子石」と書かれていて、現在は「虎御石」と呼ばれています。
延台寺は、日本三大仇討ち物語の一つ「曽我物語」の曽我兄弟の兄十郎祐成と結ばれた虎御前が開いたお寺です。
延台寺にある「虎が石(虎御石)」には、曽我十郎に関する伝説がありました。
大磯の長者は子供に恵まれませんでした。そこで、その妻が、虎池弁財天に日夜お願いしたところ、夢枕に弁財天が現れ、翌朝、美しい石が置かれていました。妻がその石を日夜礼拝していたところ、めでたく女児を授かりました。
そこで、 虎池弁財天より「虎」の字をいただいて娘に「虎」と名づけました。
虎が大きくなるにつれて石も少しずつ大きくなっていくため、長者はありがたい霊験を感じて、お堂を建て、この石を弁財天とともに虎女の守り本尊としました。この石が「虎が石(虎御石)」です。
大きくなった虎は曽我十郎と恋に落ちました。曾我十郎が虎を訪ねていくことを知った十郎の仇討の相手である工藤祐経は、刺客を差し向け、十郎を襲わせました。しかし、刺客たちが放った矢は、はね返されてしました。続いて切りつけた刀もまったく刃がたちませんでした。翌朝、虎が石を見ると矢によってできた傷ができ、長い刀傷もついていたそうです。
このことから「十郎の身代り石」 とも言われているそうです。
4、鴫立沢
弥次さん喜多さんは、虎が石のあと鴫立沢を訪ねています。
平安時代の新古今和歌集の中にある西行法師が詠んだ「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」は、三夕(さんせき)の歌の一つに数えられていて大変有名です。
西行法師がこの和歌を詠んだのが大磯だと言われています。
この歌にちなんで、江戸時代初期の寛文4年( 1664 )に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、大磯に鴫立沢の標石を建てました。そして石仏の五智如来像を安置して草庵を建立しました。その草庵が鴫立庵です。
その後、元禄年間に、大淀三千風(おおよどみちかぜ)という俳諧師が鴫立庵主第一世として入庵し、庭園を造るなど整備を行ない、それ以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場として知られるようになったそうです。
下画像は、「東海道名所図会」に載っている「鴫立沢」「鴫立庵」です。「国立国会図書館ウエッブサイトからの転載」です。
5、五右衛門風呂
小田原の旅籠で、喜多さんが踏み抜いた五右衛門風呂について、「守貞謾稿」に詳しく書かれています。岩波文庫「近世風俗志(守貞謾稿)」では巻四のp125からp127に書いてあります。
それによれば、京都や大坂では、風呂桶に底を付けずに平釜を用ひて、土の竃の上にこれを置いて、薪および古材、朽木の類で、これを焚くと書いてあり、五右衛門風呂と呼ばれるのは、昔の盗賊石川五右衛門が油煮(俗に釜煮といわれる)の刑になったという言い伝えに似ているからであるとしてあります。
そして、諸国の旅籠は専ら五右衛門風呂であり、江戸の旅籠は、お客様を銭湯に送るため、浴室を備えたものないと書いてあります。
これによると、全国の街道沿いの旅籠にあるお風呂は五右衛門風呂ということになります。
五右衛門風呂があたりまえであったため、宿屋の人たちは、特に五右衛門風呂への入り方などは説明しなかったんですね。