小田原から三島まで(「東海道中膝栗毛」7)
弥次さん喜多さんの東海道中膝栗毛の3日目は、小田原から三島までです。
なお、江戸検の公式テキスト、「江戸博覧強記」と「江戸諸国萬案内」に、弥次さん喜多さんは、箱根に泊まったと書いてありますが、私は、箱根に泊まらず三島まで行って三島に泊まったと考えていますので、三島までのあらすじを書いていきます。
【3日目のデータ】
①出発地 小田原
②宿泊地 三島
③通過した宿場 小田原⇒箱根⇒三島
④休憩場所 甘酒茶屋、山中
⑤出発地から宿泊地までの距離 約31キロ
小田原から箱根までは4里8町(約16.6キロ)あり、東海道の中の宿場間で最も長い距離となっています。しかも天下の険と呼ばれる箱根峠を登っていきますので、大変な難所でした。箱根から三島までは、3里28町(約14.4キロ)あります。江戸から京に向かう際には下りとなりますが、京から江戸に向かう際には、上りとなり、長時間歩くことになりますので、どちらから行っても箱根峠は難所ですね。
【道中のあらすじ】
①小田原から箱根まで
小田原の旅籠を夜明けまえに発った弥次さん喜多さん、風祭あたりまでくると喜多さんが「ここの名物だから、松明をかわないか」と声をかけますが、弥次さんは「べらぼうめ、もう日の出る時分だ。松明なんかいらない」といって、先に急ぎます。
湯本では、名物の挽物細工を売っています。その中できれいな娘さんを見つけた弥次さん、挽物細工を買おうとして300文というのを100文にしようと値段交渉をします。しかし、きれいな娘さんに見つめられ、言うがままとなり、最後には400文で買うはめとなり、喜多さんに笑われますが、弥次さんは「あの娘は俺に気があった」と全く気にしません。
さらに進むと、いがぐり頭の子供たちから箱根権現へ代参するから一文くれといわれて、あきれ返っているうちに賽の河原に到着します。
そこで、狂歌を詠んでいます。
辻堂は さすがにさいの かはら屋根 されども鬼は みえぬ極楽
そして、二人は、箱根の関所を無事に通過することができました。そこでその喜びを次のように狂歌に詠んでいます。
春風の 手形をあけて 君が代の 戸ざさぬ関を こゆるめでたさ
こうして、天下の剣と呼ばれる難所、そして箱年の関所を無事に通過できたことを祝して、箱根の宿で、祝杯をあげています。
弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」の初編での旅は、ここで終わっています。つまり、「東海道中膝栗毛」(正確には「浮世道中膝栗毛」)の初編は、箱根の関所を越えたところで終了しています。
しかし、初編の売り行きの良さに気をよくした十辺舎一九は、その続き「道中膝栗毛 後編」を書いて、享和3年(1803)に出版しました。
「道中膝栗毛 後編」は箱根から岡部までの道中がつづられています。
これにより、弥次さん喜多さんは、箱根から旅を再開しています。
②箱根から三島まで
後編は、いきなり、弥次さん喜多さんが甘酒茶屋で休憩するところから始まります。しかし、この甘酒茶屋がどこかは書いてありません、箱根で甘酒茶屋といえば畑宿の近くにあるのが有名ですが、関所の手前にあります。弥次さん喜多さんは、既に関所を通り過ぎているので、その甘酒茶屋ではないと思われます。
甘酒茶屋の後に甲石(かぶといし)のことが書いてあるので、「接待茶屋」のことかもしれません。いずれにしても確かなことはわかりません。
甘酒茶屋で休んでいると江戸に向かうさる大名家の奥女中たちが4.5人連れでやってきます。これをみつけた喜多さん、いい男にみせようと頬かむりをします。すると、奥女中たちが、喜多さんを覗き込んでからくすくす笑いながら通り過ぎていきました。喜多さん、この様子をみて上機嫌でした。しかし、弥次さんは、女中たちが笑っていた理由を知っていました。「みんな笑ったはずだ。てめえが頬かむりしているのは手拭いでなく越中ふんどしだ」
「旅の恥はかき捨てだ」と割り切って喜多さんがつくった狂歌が次の歌
手ぬぐいと 思うてかぶる ふんどしは さてこそ恥を さらしなりけり
旧街道脇の甲石を見ながら、ここでも狂歌を詠んでいます。
たがここに ぬぎすておきし かぶといし かかる難所に 降参やして
そして、山中の立場で、また休憩します。
ここでは、茶屋の土間にひとかたまりとなった駕籠かき(雲助)の世間話についひきこまれゆっくり休みました。
その茶屋を出ると十吉という一人の旅人と知り合いになり、世間話に花が咲きました。実は、この男が原因で弥次さん喜多さんは大変な苦労をすることになるのですが、それは次回のお話です。
三人でよもやま話をして三島宿近くの市の山(現在の三島市市山)までくると、子供たちがスッポンを捕まえて遊んでいました。そこで、今夜の酒の肴にしようと24文で買って藁苞に入れてぶら下げて、暮れなずむ頃、三島の宿までやってきました。
三島でも留女が次々を客引きをしていて、旅の途中で一緒になった十吉ともども弥次さん喜多さんは、その中の一軒に泊まることにします。
【宿泊した旅籠での出来事】
三島の旅籠で、途中で買ったスッポンが藁包から抜け出し弥次さんの指に喰いついて大騒ぎすることになります。この話もかなり有名な話で現代語訳でもしばしば取り上げられています。
旅籠に泊まることになり、さきほど買ったスッポンは、部屋の床の間においておき、3人は交代でお風呂に入ります。
弥次さん喜多さんは、御膳がでてくると早速旅籠の女中に、飯盛女がいるかどうか聞きます。すると木曽街道からきたものが二人いるというので、早速、酒の席に呼んでもらい、酒で盛り上がります。
十分楽しんだ頃に、同行していた十吉は隣の部屋に移り、弥次さん喜多さんは、敷いてもらってあった布団にそれぞれの相方と一緒にはいりました。
そうして、みんなが寝静まった夜更けに、床の間においてあったスッポンが、喜多八の蒲団にもぐりこみます。びっくりした喜多八は、スッポンを放り投げました。すると、スッポンは、弥次さんの顔にあたり、びっくりした弥次さんがスッポンをまた投げようとするとスッポンは弥次さんの指にくいつき、叩いてもなかなか離れません。大騒ぎした後、水の中にいれるとようやく指から離れました。弥次さんは、痛さをこらえて、ここでも狂歌を一首。
スッポンに くわえられたる 苦しさに こちや石亀の ぢだんだをふむ
下画像は、「東海道中膝栗毛」の挿絵で、弥次さんの指にスッポンが喰いついている場面です。この絵も左下に「自画」と書いてあるので、十返舎一九自身が描いた挿絵です。
【三日目の宿泊地は箱根か三島か】
私が持っている江戸文化歴史検定1級の公式テキスト「江戸博覧強記」P393と2級の公式テキスト「江戸諸国萬案内」p113では、弥次さん喜多さんは箱根に泊まったとしてあります。つまり、3日目に泊まった宿場は箱根となっています。
しかし、これは間違いだと私は思います。いくつか理由があります。
まず、江戸時代、東海道を旅する人の多くは、小田原に泊まった後、一日で箱根峠を越えて三島まで行き、三島で宿泊しています。これが通常のパターンで、箱根で宿泊するというケースはあまりありません。大田南畝の場合、「改元紀行」によれば、早朝6時頃に小田原を発って、その日のうちに三島を越えて沼津まで行っています。
そして、弥次さん喜多さんも朝早く小田原を発って風祭(小田原市風祭)で日の出を迎えるようとしています。こんな早発ちをするのであれば、ゆうゆうと三島にまで行けると思います。
2番目の理由ですが、「東海道中膝栗毛」では、宿泊した所では、必ず、弥次さん喜多さんは珍騒動を起していて、宿屋での出来事が詳しく書いてあります。
もし、箱根で宿泊しているという筋立てであれば、珍騒動があっておかしくないのですが、まったく書かれていなくて、三島まで行って、宿屋での珍騒動が書かれています。ということは、箱根に宿泊していないと考えられます。
次いで3番目の理由です。
田辺聖子の「『東海道中膝栗毛』を旅しよう」p88(講談社刊)には、「弥次さん喜多さんはそこ(箱根関所)から三島に下って泊まるのだが、私たちは「山のホテルで泊まった」と書いてあります。
さらに、「江戸博覧強記」電子書籍版を見ると、箱根から弥次さん喜多さんの宿泊地として表記がなくなっています。
以上から、「江戸博覧強記」と「江戸諸国萬案内」の初版本で、弥次さん喜多さんが箱根に宿泊したとなっているのは間違いだと思います。
今年も江戸検1級を受検する人がいると思います。「弥次さん喜多さんが3日目に泊まった宿場はどこですか?」などという問題が出題されるかどうかわかりませんが、一応、ご注意ください。
【9月23日追記】
昨日、以前、江戸文化歴史検定協会のホームページに『江戸博覧強記』の正誤表が公開されていて、「正誤表」をプリントアウトしていたことを思い出しました。(現在の江戸検協会のHPには公開されていないようです)
その「正誤表」で確認すると、弥次さん喜多さんが箱根に宿泊したと記載されていることが、「誤り」とされています。
やはり、弥次さん喜多さんは箱根に泊まっていないというのが正しいようです。
『江戸博覧強記』の初版本で1級受検の準備をされている方は訂正されたほうがよいと思います。『江戸博覧強記』393ページです。