江戸の旅情報③(「東海道中膝栗毛」8)
「東海道中膝栗毛」で、弥次さん喜多さんは、3日目は小田原から三島まで旅しています。3日目は、東海道最大の難所の箱根峠を越えました。箱根には、もう一つの難所箱根の関所もありました。そこで、今日は、箱根の関所の説明をしますが、その前に、湯本の挽物細工について説明していきます。
1、挽物細工(箱根細工)
箱根の名物に、箱根細工があります。東海道中膝栗毛の中では、「湯本の宿といふは、両側の家作きらびかにして、いづれの内にも美目(みめ)よき女2.3人づつ、店さきに出て名物の挽物細工をあきなふ」と書いてあります。
現在は、箱根細工とか寄木細工とか呼ばれていますが、江戸時代は挽物細工と呼ばれていたようです。
また、現在は、湯本より上に登った畑宿の名物ですが、江戸時代では、湯本のほうが有名だったのかもしません。「東海道名所図会」でも、「名品挽物細工」として湯本の名物として次のように紹介されています。「街道湯本村にあり花美(‘かび)なる諸品を細工して色々彩々り塗て店前にかざる」
そのため、「東海道中膝栗毛」でも、弥次さん喜多さんが湯本で買ったのだと思います。
【9月26日追記】
湯本の挽物細工については、大田南畝の「改元紀行」にも「寺をいでて湯本の立場にいこふ。ここに轆轤(ろくろ)もて挽物せし器あまた、ささやかなる翫(あそ)びものなどみせに列ねて、めせめせとすすむ」と書いてあります。一方、畑宿では、茶屋でお酒を呑んだことが書いてあり、挽物については一切触れられていません。
このように、江戸時代では、湯本のほうが挽物として有名であったと思います。
2、箱根の関所
東海道の関所と言えば、箱根の関所です。
江戸時代の関所の数がいくつあったかについては、いろいろな説があるようですが、多くの本では53か所としています。
その中で、幕府が最も重要視した関所が五街道の関所で、東海道では、箱根・新居の両関所、中山道では、碓氷・木曽福島の両関所、日光道中は、房川渡中田(ほうせんわたしなかた)関所(栗橋の関所ともいう)、甲州道中では小仏の関所があります。
その中でも、箱根の関所は、最も有名で、関所と言えば、多くの人が「箱根の関所」をイメージすると思います。
箱根の関所は、芦ノ湖畔に設けられていました。幕府は、元和4年(1618)に箱根宿を新設し、翌年、それに隣接して箱根の関所を設置しました。
小田原藩がこれを預り管理していました。箱根の関所が廃止されたのは明治2年のことで、それまで、東海道を旅する人々を監視していました。
関所でチェックされるものは、俗に、「入鉄砲と出女」と言われています。
「入鉄砲」は、江戸に鉄砲が入ることを監視したことで、「出女」とは江戸から出る女性を監視したことを言い表してします。「出女」が監視されたのは、人質として江戸に住んでいる大名の妻子が江戸から逃亡することを防ぐためでした。
箱根の関所も、当然、「入鉄砲と出女」の監視が厳しく行われたと思いがちですが、意外にも「出女」に重点が置かて、「入鉄砲」については、チェックされていませんでした。これは、東海道では、箱根の関所の西に新居の関所があり、新居の関所では、「入鉄砲と出女」と厳しくチェックしていたためと考えられます。
「出女」が必ず持っていなければならなかったものが、関所通行手形(女手形)です。女手形は、江戸城にいる御留守居役が発行するもので、「御留守居証文」とも言われます。手形には、旅する女性の素性や、旅の目的、行先を始め、髪形、顔・手足の特徴などが細かく記載されていました。この記載内容と一致しなければ、関所は通れませんでした。
女性が、厳しいチェックされる一方で、男性は、規則の上では、関所手形がなくても関所を通ることができました。
しかし、実際には、男性の旅人も往来手形もしくは関所手形を持参していることが多かったようです。
関所を通行する際に提示するのは、多くの場合、「往来手形」です。
しかし、「東海道中膝栗毛」初編で旅の出発前に、弥次さん喜多さんが往来手形と関所手形を準備したと書いてありますので、弥次さん喜多さんがは箱根では関所手形を呈示したのだと思います。ただし、「東海道中膝栗毛」には、箱根の関所をどのようにして通過したか、全く書かれていませんので、確かではありません。
「箱根関所のホームページ」によると、男性にとって必要とされていない関所手形を、弥次さん喜多さんのように男性が持参していたのは、手形を持っていないと「入念な吟味」(詳しい検査)が行なわれるためだったようです。
関所での女性に対するチェックは厳しくて、関所手形の記載と一致しないと通過できませんでした。その場合は、通過をあきらめるか、手形の記載を改めたものを再発行してもらうしかありませんでした。また、関所破りは重罪で、発覚すれば、磔(はりつけ)でした。
このように関所は、女性の旅人にとって大変厄介なものでしたが、女性だけでなく、男性にとっても心配の種子(たね)でした。
ですから、「東海道中膝栗毛」で、関所を無事通過できた弥次さん喜多さんが祝杯を挙げたのでした。
【9月26日追記】
大田南畝は、「改元紀行」で、関所通過の様子を次のように書いています。
「御関所を守れるものの方に従者もて言い遣わせしに、すでに問屋の者より言いおこしぬれば、改めて言うに及ばすと言うにぞ、笠脱ぎ、中貫の沓(くつ)はきて関を過ぐ」
大田南畝の一行は、関所から、事前に問屋から通知があったため、特に手続きをする必要がないと言われ、南畝は、笠を脱いで、関所を通過しています。
南畝が改めて笠を脱いでいるのは、関所に掲示されている高札の最初の条文に「往還の輩(やから)、番所の前にて、笠・頭巾をぬぎ、これを通るべきこと」と定められていて、関所を通過する際には、笠や頭巾はぬぐと定められていたためです。