鰻の蒲焼-旅の情報⑤(東海道中膝栗毛11)
東海道53次の宿場で、沼津の先は、原⇒吉原⇒蒲原と原のつく宿場が3つ続きます。そのため、「東海道名所図会」では、「原」の解説で、「委しくは浮島ヶ原なるべし。北に富士沼、南に大洋漫々たり。その中の広原なれば、この地名あり。原・吉原・蒲原、これを三原(さんげん)という」と書いています。
原宿と吉原宿の間にある新田(しんでん)は鰻が名物と「東海道中膝栗毛」の中に書いてあります。
その部分は次の通りです。
それより新田(しんでん)といへる建場(たてば)にいたる。ここはうなぎの名物にて、家ごとに煽(あお)ぎたつるかばやきの匂いに、ふたりは鼻の先をひこつかして
蒲燒の 匂いを嗅(かぐ)も うとましや
こちらふたりは うなんぎのたび
弥次さん喜多さんは、三島の宿屋で、胡麻の灰によって有金を盗まれたため、お金がないため、名物の鰻も鼻をひこつかして(ぴくぴくさせて)蒲焼のにおいを嗅いだだけでした。上の狂歌の最後の「うなんぎのたび」は「うなぎ」と「なんぎ(難儀)のたび」とをかけた言葉となっています。
大田南畝も、原宿と吉原宿の間にある柏原の立場で、名物の鰻を食べています。しかし、その鰻は江戸の蒲焼とは異なるものだったようで、「改元紀行」に、柏原の鰻はうまいと聞いたので、ある家に入って食べてみると、江戸前の鰻とは様変わりで、一寸四方にきって串に刺し、重ねた藁にさしてあり、長くさいてある江戸の鰻の形とは大変変わっていて、味も良くなかったと書いています。
改元紀行の元の文章は次の通りです。
柏木(原文のまま、実は柏原の間違い)の立場は鰻よしと聞きて、ある家に立ち入りて味ひみるに、江戸前の魚とはさまかはりて、わづかに一寸四方ばかりに切りて串にさし、束ねたる藁にさし置り。長くさきたる形とは大に異なり、味も又佳ならず。
鰻の蒲焼は、もともと鰻を筒切りとして 串にさして焼いたものです。
守貞謾稿には、次のように書いてあります。
鰻屋(うなぎや) 古は鰻蒲焼(かばやき)と云ふ名のあるは、鰻を筒ぎりにして串にさし焼きしなり。形蒲穂に似たる故の名なり。 《「近世風俗志(守貞謾稿)1」のp210より》
蒲焼という名前は、守貞謾稿に書いてあるように、鰻を筒切りにして串に刺した形が植物の蒲(がま)の穂に似ていることからついた名前とされています。
それが鰻を割いて焼く形に進化して現代の蒲焼となりました。下写真は浅草の「やっこ」のうな重です。

大田南畝や十辺舎一九舎が活躍した時代には、蒲焼は現代の形の蒲焼になっていましたが、柏原で大田南畝が食べた蒲焼は、まだ、江戸の蒲焼に至らない形のもので、場合によると、鰻を筒切りにしたものを串に刺して焼いた形のものだったのかもしれません。

