街道の名物―瀬戸の染飯(「東海道中膝栗毛」15)
弥次さん喜多さんは、前回書いたように藤枝宿の入口で出あった田舎の親爺と瀬戸の立場の茶店でまた一緒になり、御酒を御馳走になるつもりのところ騙されてしまいました。
下の絵は、東海道中膝栗毛に載っている瀬戸の立場の茶屋での弥次さん喜多さんと親爺が酒を飲んでいる場面を描いた挿絵です。右奥の庭に面した座敷で飲んでいる3人が弥次さんたちです。

さて、弥次さん喜多さんが騙された瀬戸の立場は、藤枝宿の西側の瀬戸川を越えた場所にありました。現在は藤枝市上青島付近になります。
その瀬戸の名物が「瀬戸の染飯(そめいい)」です。
「東海道中膝栗毛」の中では次のように書かれています。
瀬戸というところにいたる。ここは立場にて染飯の名物なれば、
焼き物の 名にあう瀬戸の 名物は さてこそ米も
そめつけにして
※注:この歌の意味は、「(瀬戸物という)焼き物の名前と同じ名前の瀬戸の名物は、米であるけれど染め付けたものです。」というものです。
ここの「染飯(そめいい)」は、東海道の名物として広く知られていたようで、「東海道中膝栗毛」のほか、「東海道名所図会」や「東海道宿村大概帳」などにも、瀬戸の名物と記されています。
その中で「東海道名所図会」には次のように書いてあります。
【名物染飯】 瀬戸村の茶店に売る也 強飯(こわいい)を山梔子(くちなし)にて染めてそれを摺(すり)つぶし小判形に薄く干乾(ほしかわか)してうる也
そして、「東海道名所図会」には、「瀬戸の染飯」を売る茶店を描いた挿絵も掲載されています。(下画像参照。「国立国会図書館ウエッブサイトから転載」)
左側の茶店の店先で旅人2人が覗き込んでいる箱型の台の上にあるのが染飯です。

「瀬戸の染飯」というのは、「東海道名所図会」に書いて通り、もち米を蒸したものをクチナシの実で黄色く染めた後、すりつぶして小判形に薄く伸ばして乾かしたものです。
下写真が「瀬戸の強飯」(「ふじえだ東海道まちあるき」より転載)です。

「染飯(そめいい)」は、東海道の名物として広く知られていたようですので、大坂の銅座へ赴任する大田南畝の紀行文「改元紀行」に書いてあるか調べてみましたが、「改元紀行」には書いてありませんでした。大田南畝は、府中を出てから、暗くなって島田に入り大井川を渡り金谷まで進んでいます。そのため藤枝あたりからは休息をとる余裕もなかったので、「瀬戸の染飯」に触れてなかったのだと思います。
【11月28日追記】
広重の東海道五十三次シリーズの一つに東海道五十三次の風景とともに狂歌を書き込んだ「狂歌入東海道」というのがあります。その「狂歌入東海道」の「藤枝」に、「染飯」が描かれていました。絵に染飯が描かれているわけではないのですが、左上の部分に「口なしの 色をばよそに かしましく あきなふ妹(いも)が 瀬戸の

現在、藤枝駅前にある喜久屋で、「染飯弁当」を700円で販売しているようです。喜久屋のホームページを見ると、前日要予約となっています。
この「瀬戸の染飯」を紹介する施設が、東海道線藤枝駅から西に20数分の東海道近くにある「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」です。
ここには、瀬戸の染飯の解説資料が展示されているとのことです。機会がありましたら訪ねてみたいと思っています。下写真が外観(「ふじえだ東海道まちあるき」より転載)です。

この資料館は、「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」という名称で千貫堤跡の上に作られています。そこで、千貫堤について補足説明しておきます。
藤枝宿は、大井川の氾濫によりしばしば大きな被害を蒙っていました。
千貫堤を築いた水野忠善が城主であった田中城は藤枝宿の北側にありました。
※「ふじえだ東海道まちあるき」によれば、現在、田中城の本丸跡は小学校となっていますが、江戸時代後期の田中藩主本多家の庭園であった下屋敷跡に田中城ゆかりの建築物も移築・復元されているとのことです。(下写真-「ふじえだ東海道まちあるき」より転載)

そのため、藤枝は宿場町であるとともに田中城の城下町という性格もありました。
田中城は、元和2年(1616)に徳川家康が鷹狩りの際、田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に勧められた鯛の天麩羅をたべて体調を崩したことで有名です。
また、水野忠善は、徳川家康の母於大の方の弟忠守の孫にあたります。水野家は多くの大名を輩出した譜代の名門でした。水野忠善の子孫には、有名な天保の改革を行った水野忠邦がいます。

