渋沢栄一生誕地深谷訪問(渋沢栄一ゆかりの地1)
来年の大河ドラマ「晴天を衝(つ)け」の主人公は、新一万円札の肖像に採用された渋沢栄一です。
渋沢栄一が生まれたのは、現在の埼玉県深谷市です。埼玉県に住んでいる私として大変期待しています。そこで、新型コロナの第三波が始まる前の11月初めに渋沢栄一の生誕地深谷を訪ねてきました。
そこで、これから渋沢栄一ゆかりの地の様子など渋沢栄一に関することを連載していきたいと思います。
今回は、ゆかりの地の概観をご紹介します。それぞれの詳細については、後日、順次ご案内します。
下写真は渋沢栄一の生誕地に建つ旧渋沢邸「中の家(なかんち)」です。

渋沢栄一が生まれたのは天保11年(1840)で、当時の武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島で、現在の埼玉県深谷市血洗島です。
城山三郎の「雄気堂々」に「血洗島は、江戸から20里、中山道深谷宿からさらに北へ2里ほど入ったところにある。」と書いてあるように、血洗島は、JR高崎線深谷駅のほぼ真北の方向で6、5キロあり、歩いていくと1時間以上かかります。
そのため、渋沢栄一ゆかりの地をめぐるには、車を利用するしかありません。
深谷駅からコミュニティバスの北部シャトル便が出ていますので、これを利用するかタクシーを利用するかマイカーで行くかのいずれかによります。
そこで、車を利用する前提で深谷駅に近い順に渋沢栄一ゆかりの地をご紹介します。
誠之堂(せいしどう)・清風亭
渋沢栄一ゆかりの建物である「誠之堂(せいしどう)」と「清風亭」は、深谷駅から約4キロの所にある大寄公民館の敷地内にあります。
これら二つの建物は、元は東京の世田谷区瀬田に建てられたものですが、平成11年に深谷市に移築されました。
「誠之堂」は、渋沢栄一の喜寿のお祝いに、第一国立銀行の有志から寄贈されたものです。(下写真)

「清風亭」は、渋沢栄一の愛弟子であり、第一国立銀行の2代目頭取(初代頭取は渋沢栄一)であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して誠之堂の脇に建てられたものです。(下写真)

尾高惇忠(あつただ又はじゅんちゅう)生家
尾高惇忠(あつただ又はじゅんちゅう)生家は、大寄公民館から2キロ弱の距離にあり、下手計の交差点から西に100m入ったところにあります。
尾高惇忠と渋沢栄一は深い関係にあります。尾高惇忠は渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもありました。さらに、惇忠の妹千代が渋沢栄一の妻でしたので、義兄でもあります。さらに、幕末の高崎城乗っ取りを計画した際には同志でもあり、明治維新後は、渋沢栄一の要請により富岡製糸場の初代場長を務めました。下写真は生家の外観です。

鹿島神社
鹿島神社は、尾高惇忠生家から西に500メートルほど行った場所に鎮座している旧下手計村の鎮守です。
境内には建てられた尾高惇忠の業績を伝える藍香尾高翁頌徳碑が建っています。下写真は鹿島神社社殿です。

渋沢栄一記念館
鹿島神社から北西に約500mに行ったところにあります。
平成7年に開館されました。この記念館1階に渋沢栄一資料室が設置されていて、渋沢栄一の遺墨や写真などの資料が展示されています。
2階の講義室には、今年完成した「渋沢栄一アンドロイド」が設置されてます。

旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は、渋沢栄一生誕地に建ち、渋沢栄一の妹夫妻によって明治28年に建てられた建物です。
「中の家」と書いて「なかんち」と呼びます。「なかんち」という呼び方は埼玉県北部の独特の呼び方です。
この地で渋沢栄一は天保11年(1840)に生まれました。24歳の時に家を出た後、生家は妹ていが婿を迎え、渋沢家を継ぎました。
渋沢栄一は、東京で暮らすようになっても、しばしば帰郷しこの家に寝泊まりしたといいます。下写真は「中の家(なかんち)」の正門です。

諏訪神社
「中の家(なかんち)」から南に約500mの所に諏訪神社があります。
諏訪神社は旧血洗島村の鎮守で、拝殿は渋沢栄一が寄進したものです。
境内には、渋沢栄一の喜寿を祝った「渋沢青淵翁喜寿碑」が建っています。


