渋沢栄一の生涯(渋沢栄一ゆかりの地2)
深谷市血洗島の渋沢栄一ゆかりの地をご案内する前に、渋沢栄一の生涯を知っていいただいたほうがよいと思いますので、渋沢栄一の血洗島時代の生活を中心にその生涯を簡単に書いておきます。
渋沢栄一は天保11年(1840)に生れ、昭和6年(1931)に亡くなっていて、91歳の天寿を全うしました。波乱万丈の青年時代を過ごし、明治新政府の大蔵省を退官した後は、一貫して民間で活躍し、多くの企業の創設や経営に参画し、「近代日本資本主義の父」とも呼ばれています。下写真は国立国会図書館デジタルコレクションからの転載です。

血洗島での少年~青年時代
渋沢栄一は天保11年(1840)2月13日に当時の武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の豪農である渋沢市郎右衛門・えい夫婦の子供として生まれました。
血洗島村は水田が少なく畑作中心の地であり、渋沢家は、畑作・養蚕のほか、藍玉の製造・販売を家業としていました。
渋沢栄一は、幼い頃から父市郎右衛門に学問の手解きを受け、その後、従兄である隣村の下手計村に住む尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
14・5歳の頃から家業の手伝いを行うようになり、近隣の村を回り藍の葉を買い付けを行うようになりました。
17歳の時には、岡部藩より渋沢家が御用金を命じられた際、栄一は父のかわいに陣屋に出向きましたが、その岡部藩の代官の態度に憤り、幕府政治への疑問を感じるようになりました。
その頃、渋沢栄一は、尾高惇忠とともに信州佐久に藍玉の販売に出かけました。その時、信州の内山峡で詠んだ「内山峡」という漢詩があります。
その中の一節に「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」という部分があります。読み下すと次のようになります。
「勢いは青天(せいてん)を衝(つ)いて臂(ひじ)を攘(まくり)て躋(のぼ)り 気は白雲を穿(うがち)て手に唾(つば)して征(ゆ)く」
これが、大河ドラマのタイトル「晴天を衝け」の由来です。
※尾高惇忠と渋沢栄一の共著「巡信紀詩」には安政5年(1858)10月に内山峡を訪ねたと記されています。
従兄でもあり学問の師でもある尾高惇忠は、水戸学の影響を受けていたことから、渋沢栄一も「尊王攘夷」思想の影響を受けるようになりました。
そして、文久3年(1863)に、渋沢栄一は、尾高惇忠や従兄の渋沢成一郎らとともに攘夷実行のため、高崎城乗っ取りさらに横浜の外国人居留地襲撃を計画しました。
その蜂起の直前に京都から血洗島に帰ってきた惇忠の弟の尾高長七郎が京都の情勢を説明し、蜂起に反対し計画は中止されます。
計画中止の後、幕府から追及されることを懸念して、渋沢栄一は、喜作とともに伊勢参拝を口実として京都へ向かいました。
これ以降の渋沢栄一の活躍の場は京都、パリ、静岡、東京となり、血洗島へは時々帰郷するだけとなりました。
京都からパリへ
京都に到着した渋沢栄一と喜作は、一橋家に仕えることになります。
この時、一橋家に仕官したことにより、渋沢栄一と徳川慶喜との深い関係が生じます。
一橋家に仕えた栄一は、歩兵の募集や一橋家の財政改革の取り組みなどに実力を発揮し、次第に認められていきます。
14代将軍徳川家茂が急死したことから一橋慶喜が15代将軍となり、その徳川慶喜から、パリで開催される万国博覧会に幕府を代表して派遣される徳川昭武(徳川慶喜の実弟)に随行しパリを訪問します。万国博覧会が終了した後は、欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く知ることができました。
万国博覧会が終了後は、徳川昭武は、そのままヨーロッパに留学する予定でしたが、水戸藩主徳川慶篤が亡くなり、昭武が後継藩主となったため帰国することとなり、それに随行して栄一も欧州から帰国しました。
帰国から大蔵省勤務まで
帰国後は、静岡に赴き徳川慶喜に挨拶した後、「商法会所」を静岡に設立し、銀行業務と商社業務をあわせた業務を展開しました。
その渋沢栄一の活躍ぶりを評価した明治新政府に招かれ上京します。そして、大蔵省の幹部として新しい国づくりに深く関わります。
しかし、渋沢栄一は大蔵卿の大久保利通と意見があわず、明治6年に大蔵省を退官しました。
大蔵省退職後実業界へ
大蔵省を退職後、渋沢栄一は一民間経済人として活動し、いくら要請があっても政界や官界の人になることはありませんでした。
大蔵省を辞めた渋沢栄一が就任したのは、「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
栄一は第一国立銀行を拠点に、多くの企業の創設 ・育成に力を入れ、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
渋沢栄一が関わった企業は数多くありますが、代表的なところは、渋沢史料館の常設展示図録によれば、第一銀行、王子製紙、東京海上保険、大阪紡績、日本鉄道、日本郵船、東京瓦斯、帝国ホテルなどがあります。
また、企業経営だけでなく、東京高等商業学校(現一橋大学)、日本女子大学、などの教育機関、東京養育院、聖路加国際病院など社会公共事業の支援、さらに民間外交にも尽力しました。
このように日本の近代化に数多くの功績を残した渋沢栄一は、昭和6年(1931)11月11日、91歳の生涯を閉じました。
今回の渋沢栄一の生涯は略歴レベルです。今後、大河ドラマ「晴天を衝け」のドラマ解説などのなかで、適宜、栄一の生涯での出来事や業績・エピソードに触れていこうと思います。
コロナ禍に見舞われた2020年も間もなく暮れようとしています。
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