中の家(なかんち)その2(渋沢栄一ゆかりの地4)
今回は、中の家(なかんち)の敷地内にあ渋沢栄一の銅像や栄一の両親の招魂碑等のご案内をします。
渋沢栄一銅像
正門を入ると右手に池と庭園があります。その池のほとりに渋沢栄一の銅像があります。台座には「若き日の栄一」と刻まれています。明治元年(1868年)にパリに向かった時の栄一の姿です。

「渋沢栄一、パリ万博へ」(渋沢華子著)の表紙に、この銅像のモデルとなった写真が使用されていますので参考に本の紹介をしておきます。(下写真)

この銅像は、中の家(なかんち)が渋沢国際学園の施設として利用されていた時代に建立されたものだそうです。おそらく、渋沢国際学園の関係者により建立されたものではないかと思いますが、建立の経緯や建立者等ははっきりしません。
日本の近代化に大きな功績を残した栄一が若き日には極東日本からパリに渡り近代文明を学んだことを表す栄一の銅像は、海外からやってきた留学生たちを鼓舞したのではないでしょうか。
楷の木
正門を入った右手に楷の木があります。
楷の木は曲阜にある孔子の墓所に植えられている名木で、初め孔子の弟子の子貢が植えたと伝えられ、今日まで植え継がれてきているといいます。
枝や葉が整然としているので、「楷書」という書体名の語源となったといわれています。
楷の木は、明治まで日本には存在しませんでした。大正4年に初めて白沢保美(当時農商務省林業試験場長・林学博士)が孔子の墓所から種子を採取し日本で育成したものです。育てられた楷の木は、儒教と縁の深い湯島聖堂・足利学校・閑谷学校などに寄贈されました。東京では湯島聖堂にあるものが有名です。
中の家(なかんち)の楷の木は、昭和41年に矢野一郎から渋沢秀雄邸、飛鳥山庭園とともに苗木が贈られたものであると深谷市作成のパンフレットに書いてあります。※贈主の矢野一郎はおそらく第一生命会長の矢野一郎ではないかと思います。
渋沢栄一は「論語」を大切に考えていたことから、中の家(なかんち)にも贈られたのではないでしょうか。

晩香渋沢翁招魂碑、先妣(せんぴ)渋沢氏招魂碑、渋沢平九郎追懐碑
主屋の東北側に、晩香渋沢翁招魂碑、先妣(せんぴ)渋沢氏招魂碑、渋沢平九郎追懐碑の3つの石碑がまとまって建てられています。
これらの石碑は、東京谷中の渋沢家墓所内にありましたが、平成26年3月に「中の家」の敷地内に移設されたものです。
晩香渋沢翁招魂碑と先妣(せんぴ)渋沢氏招魂碑
晩香渋沢翁招魂碑と先妣(せんぴ)渋沢氏招魂碑は並んで建てられています。※先妣(せんぴ)とは死んだ母という意味の言葉です。
(下写真) 右側が晩香渋沢翁招魂碑、左側が先妣渋沢氏招魂碑です。

晩香渋沢翁招魂碑は、渋沢栄一の父渋沢市郎右衛門の招魂碑です。撰文は尾高惇忠によるものです。
先妣(せんぴ)渋沢氏招魂碑は、栄一の母渋沢えいの招魂碑です。こちらの撰文は栄一によるものです。
栄一の父母については、後日、詳しく説明します。
土蔵Ⅰの北側に、渋沢平九郎追懐碑があります。
渋沢平九郎は、尾高惇忠(あつただ又はじゅんちゅう)の弟です。尾高惇忠の弟には長七郎と平九郎とがいましたが、平九郎は、渋沢栄一がパリに向かう時、急遽、栄一の養子となりました。
栄一がパリに行っている間日本で起きた新政府軍と旧幕府軍との戦いのなかで、渋沢成一郎が中心となって結成された振武軍に参加して飯能戦争で戦いました。しかし、振武軍が敗れ、平九郎は敗走する途中で、現在の埼玉県越生町黒山で自刃して亡くなりました。この碑は、平九郎の没後50年にあたる大正11年に建てられたもので、碑には亡くなった平九郎の死を惜しんで、義父である栄一が平九郎を偲んで作った漢詩が刻まれています。

副屋
正門を敷地内に入らずに右手に行くと「副屋」があります。
副屋は明治44年に上棟したものです。深谷市作成のパンフレットによれば、「上棟以前には藍玉の取引に使われたのか「お店」と呼ばれていた。」と書いてあります。また、市郎が近隣の子供に漢学を教えるために学者を住まわせていたとも、八基村農業協同組合事務所としても使われていた時期もあったようです。


