血洗島の地名の由来(渋沢栄一ゆかりの地5)
渋沢栄一の生地は血洗島といいます。
現在も血洗島の地名は残されています。
血洗島にある電柱にも、当然のことながら血洗島の地名が書かれています。
私が地名の由来を調べる際によく利用するのが『日本歴史地名大系』(平凡社刊)と『角川日本地名大辞典』(角川書店)です。
しかし、『角川日本地名大辞典』(角川書店)では、地名の由来については全く触れられていません。
『日本歴史地名大系』には、「後三年の役の頃、源義家が利根川の戦いで片腕を切落され、当地でその血を洗い流したという伝説がある。」とだけ書いてあります。
また、渋沢栄一について書いた本は数多くありますが、血洗島の地名の由来について書いたものは、あまりありません。 その中で、地名の由来について書いてある幾つかの本とその内容を紹介しておきます。
「天才渋沢栄一」(星亮一著)
この血なまぐさい村名には幾多の伝説がある。古来、ここは古戦場で、切り落とされた武士の手が流れ着いた。その一人が八幡太郎義家(源義家)だったという。真偽のほどは分らない。
「渋沢家三代」(文春新書:佐野眞一著)
口碑によれば、八幡太郎義家の家臣が片腕を斬り落とされ、その傷口をこの地の小川で洗ったからきたものだという。(中略)
だが、渋沢家の家系に詳しい郷土史家の新井慎一によれば、血洗島の血はおそらく土地の地からきたもので、近くを流れる利根川の氾濫によっていくたびも土地を洗われたことからきたものではないかという。
「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一―そしてその一族の人びと」(渋沢華子著)
この血生臭い村名には、幾多の伝説が伝えられていた。その一つに赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を取られ、その傷をこの地で洗ったという。また武将の首を首実検に備えるため、小川の水で洗ったともいう。
隣村の手計村には、切り落とされた武士の手ばかりが、流れ着いたとも伝えられている。武蔵七党はじめ、その時代ごとに戦いが起こり、古戦場と化していったからであろう。また、八幡太郎義家が、利根川岸の戦いで片腕を切り落とされ、その血を洗った村で、その腕を葬った所が手計(手墓) の村名の起因だとも伝えられている。
これらの中で引用されている源義家が片腕を切落されたというような話は、義家の家臣であればまだしも、義家自身の腕が切り落とされることなど、いくら口碑(言い伝え)といえどもありえるはずがないと思いました。
そこで、さらに調べるため、「新編武蔵風土記稿」を調べてみましたが、「新編武蔵風土記稿」には、地名の由来には全く触れられていません。※参考に「新編武蔵風土記稿」の血洗島についての項を下段に記載しておきました。
また、インターネットで検索すると、深谷市役所のホームページでかなり詳しく地名の由来が説明してありました。しかし、残念ながら、前後の文脈が明解でないため、書いてある内容を理解するのが困難でした。
こうしたことから、さらに血洗島の地名の由来について書いてありそうな本を探したところ「深谷の地名」(柴崎伊勢三・安部利平著 深谷郷土文化保存会編集発行)という本があり、また、ネット検索すると「血洗島 – fukapedia」というページが見つかりました。
そこで紹介されている説をまとめてみると次の4つになります。
①赤城のムカデと日光の大蛇が戦場ヶ原で戦ったという伝説との関係は不明だが、赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を斬られ、その傷口をこの地で洗ったという説⇒後で書きますが、渋沢栄一がこの説を述べています。
②アイヌ語源説で、アイヌ語の「岸、末端、尻」などの意を表す「ケッセン、ケセン、ケシ」に血洗の漢字をあてたという説。これによれば「気仙(ケセン)沼」や「厚岸(ケシ)」も同じ由来とのこと。
③その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説があり、それが地名となったという説
④利根川の洪水による氾濫原のため、地洗(地を洗うように流れたという意)とか、地荒(地が荒れるという意)であったのが、いつの間にか「地」が「血」となり、血洗島となったという説
以上のように血洗島の地名の由来については、代表的なもので4つの説がありますが、定説はないようです。
しかし、諸説の中では、深谷市のホームページおよび「血洗島 – fukapedia」の紹介されている中では、第4説が妥当だろうと書いてあります。
私も第4説であれば、怖い地名ではなくなるので、この説が最もふさわしいと思います。
また、「小説渋沢栄一」(津本陽著)では、「血洗島の地名は、利根川が氾濫して、この河畔の村の大地を洗うことに由来しているともいう」と書かれています。
ところで、渋沢栄一は、生地の地名について次のように話しています。
「怖ろしげなるこの村名のかげには、幾多の伝説と口碑とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が、他の山霊と闘って片腕を挫(くじ)かれた。その傷口をこの地で洗ったなどいう種類のもので、斉東野人(田舎者の意)の語たるはいうまでもない。それは深く詮索せぬ」(私の判断で現代文の言葉遣いに変更した部分があります)
これを読むと、渋沢栄一は、血洗島という名前に嫌な名前だとか物騒な名前だとかは考えていなかったように思います。やはり、郷土を愛していたということでしょうか。あるいは、地名の由来などにはこだわなかったということでしょうか。
この辺り一帯は利根川の洪水によりできた氾濫原にあたり、瀬(水の流れが急な所)や島(中州のこと)という地名が多く、俗に「四瀬八島」という言葉も残っているようです。 現に、江戸時代の村の村高を書き上げた「元禄郷帳」や「天保郷帳」に「中瀬・横瀬」」や「血洗島、西島、内ヶ島、大塚島、矢島、伊勢島、高島」などの村名があり、現在も、深谷市内に、それらの地名が残っています。
参考:新編武蔵風土記稿 巻之二・百三十二・榛沢郡之三
○血洗島村 血洗島村も郷庄及江戸への行程等前村に同じ ○大寄郷、藤田庄に属し、江戸より二十里、明暦2年検地等の事前村と同じの意 当村の里正今より十四代の先祖、和泉と云もの、天正の頃開墾せしと云、此頃は家数纔五軒なりしが、今は五十に及べり、東南は上下手斗の二村、西は南北阿賀野の二村にて、北は横瀬村なり、東西四丁余、南北十九町、正保の頃は皆畑なりしが、今は水田も少しく交れり、御入国の後蘆田右衛門大夫康直及安部弥市郎信勝に賜はれり、其後蘆田の分は上りて、一円に安部氏に賜ひ、今子孫摂津守領す、検地は天正十八年改ありと云