渋沢一族と栄一の父母(渋沢栄一ゆかりの地7)
渋沢栄一が生まれた中の家(なかんち)のご案内をしていますが、今回は、渋沢一族と渋沢栄一の父母について説明します。少し長くなりますが、ご容赦ください。
渋沢一族
血洗島の渋沢一族は、血洗島が開かれた時から居住する草分の四家の一つと言われ、甲斐国北巨摩郡渋沢村(現山梨県北杜市)の出身で、天正年間に武蔵国で帰農したとされています。
大正10年の頃は、血洗島村の戸数は63戸あったそうですが、そのうち渋沢を名のる家は17戸あり、全戸数の約4分の1を占めていたと「渋沢栄一伝記史料」に書かれています。
これだけ渋沢を名のる家が多くなると「渋沢!」と姓を呼んだだけでは区別がつきませんので、屋号で呼ぶことが多くなります。
東の方にある家だから「東の家(ひがしんち)」、西の方にある家は「西の家(にしんち)」、前のほうにある家だから「前の家(まえんち)」という屋号がつくようになります。
渋沢栄一の生家は「東の家(ひがしんち)」と西の家(にしんち)」の中間にあるので「中の家(なかんち)」と呼ばれました。
渋沢栄一は、生家中の家(なかんち)を渋沢一族の宗家であるといっています。
その一方で、「東の家(ひがしんち)」が本家(宗家)であると書いてある本もあります。
例えば、渋沢栄一を描いて有名な城山三郎の小説「雄気堂々」では「本家の宗助」(新潮文庫では(上)のp20)となっています。また「渋沢家三代(佐野眞一著)では「本家筋にあたる東の家」(p19)と書いてあります。
しかし、多くの本は、栄一の説明の通り、中の家(なかんち)が宗家であるとしています。
そう書いている本には、人物叢書「渋沢栄一」(土屋喬雄著)、岩波新書「渋沢栄一」(島田正和著)、「渋沢栄一」(宮本又郎編著)、ちくま新書「渋沢栄一(木村正人著)などがあります。
私自身は、生家の屋号が中の家(なかんち)と呼ばれていることから、東の家(ひがしんち)でなく、中の家(なかんち)が渋沢一族の宗家(本家)だと思っています。
【1月13日追記】
中の家(なかんち)が宗家であることについて、「渋沢栄一伝稿本」の中に、栄一の生家を中の家(なかんち)といって、中の家(なかんち)を中心にして、東にある家をを東の家(ひがしんち)、西にあるを西の家(にしんち)といい、前にあるの家を前の家(まえんち)といっているのは、すべて中の家(なかんち)を中心にした呼び名であるので、中の家(なかんち)が宗家であると書いてあるのを見つけました。
渋沢栄一の父・市郎右衛門
渋沢栄一の父は、通称市郎右衛門、本名美雅(よしまさ)といい、号は晩香といいます。下写真は、中の家(なかんち)にある父市郎右衛門の招魂碑である「晩香渋沢翁招魂碑」です。

市郎衛門は、中の家(なかんち)の生まれではなく、渋沢一族の一つである東の家(ひがしんち)に生まれ、2代目宗助の三男で元助といいました。
東の家(ひがしんち)は、その頃、血洗島の随一の土地持ち・財産持ちでした。
しかし、中の家(なかんち)は、当時、苦しんでいたうえ、男子の跡継ぎがなかったため、中の家(なかんち)に婿入りし、中の家(なかんち)代々の通称市郎右衛門を名のりました。
栄一の祖父の時代の中の家(なかんち)が所持していた土地は一町歩でそれほど多いわけではなく、耕地は畑のみで、藍玉の製造も始めていたといいます。
中の家(なかんち)に婿入りした市郎右衛門は、麦作や養蚕に行うとともに、既に始まっていた藍玉製造に特に力を入れました。
そして東の家(ひがしんち)に次ぐ富家にまで発展させ、名主見習ともなり、岡部藩からは名字帯刀を許されました。
栄一は、自伝「雨夜譚(あまよがたり)」で父親についても語っています。原文は後記しましたが、一部に難解の部分もあるので、私なりに読み下したものが次の文です。原文も参考にして読んでください。
「(父の性質は)非常に真面目で、少しでも人を許すことが嫌いな性格で、どんな些細なことでも、四角四面に物事を処理するふうでした。また、普段多くの書物を読む人ではなかったが、四書五経くらいは、充分に読めて、そのかたわらで詩を作り俳諧もするという風流心もありました。また非常にまじめで厳しい性格に似ず、他人に対しては、情けや哀れみをかける徳に富んでいて、人の世話をすることなどは非常に親身になって行いました。そうして、平素から自分の職分については、非常に質素倹約で、ただ一生懸命に努力するというすこぶるしっかりした人物でした。
市郎右衛門は、栄一が語っているように四角四面で非常にまじめで厳しい人だったようです。」
その市郎右衛門が非常にまじめであったことを示すエピソードが、栄一の長女穂積歌子が母千代の思い出を書いた「ははその落葉」の中に書かれています。
栄一がパリから帰国し、一旦静岡に住み、妻千代と長女歌子を呼び寄せた後、大蔵省に出仕することとなり、東京の湯島天神近くに住まいを定めました。
市郎右衛門は、横浜での仕事のついでの時に湯島の家に2・3泊していきました。湯島の家に最初に来たときに、市郎右衛門は、 栄一のことを「殿様」、千代のことを「奧様」と呼んだそうです。驚いた千代が、「殿様」「奥様」と呼ぶのをやめて欲しいとお願いすると、「天皇に仕える朝臣を軽々しく呼ぶことはできない」と言ったそうです。
また、明治4年、市郎右衛門が脳溢血で倒れたと急報が届いたので、栄一が、朝一番で大蔵省の仕事を済まし、深谷に大急ぎで戻り、夜11時に到着した時のこと、栄一が人力車を降りて正門から入ろうとすると門の前に盛砂がされていて、妹・ていをはじめ一族が衣服を正して栄一を迎えました。栄一が驚いて事情を訊くと妹・ていが市郎右衛門が朝廷に仕える人を親族だと思って粗略にしてはならないといって、盛砂等を指示したのだと答えたそうです。
こんな義理堅い市郎右衛門ですが、非常に慈悲深い面もありました。
それを示すエピソードも「ははその落葉」に載っています。
栄一が帰国した際に、ヨーロッパで貯めておいたという百両をお礼だと差し出した際、市郎右衛門は、それを一旦受け取った後、そのまま百両を千代の方へ押しやって、「5年間、つらいことにもよく辛抱して、私たちに仕えたくれた。これは、その褒美だ」といって、百両すべてを千代にあげてしまったそうです。
前述した栄一が父が倒れてと聞いて急いで深谷に帰った明治4年11月、市郎右衛門は一時持ち直しました。しかし再び人事不省となり、11月22日に63歳で亡くなりました。
お墓は、中の家(なかんち)正門南東にある渋沢家の墓地に埋葬されています。その戒名は、晩香院藍田青於居士です。藍玉の製造販売で中の家(なかんち)を繁栄させたことから藍の字が入っているのでしょう。(下写真が市郎右衛門のお墓です。)

なお、現在中の家(なかんち)の敷地内にある父市郎右衛門の招魂碑は、元々谷中の渋沢栄一のお墓の敷地内ありました。
その事情を、栄一が自ら次のように語っています。
「父母の墳墓は郷里にあるが私は度々郷里まで展墓(墓参りすること)に行く暇も無いので、祭祀の便利を得るやうに父の亡くなられた翌年、谷中の墓地に建てたのが前回に申述べて置いた招魂碑である。父の招魂碑に刻んである撰文は尾高惇忠の書いて呉れられたもので、左の通りである。」(撰文は略す)
渋沢栄一の母親・えい
栄一の母・えいは中の家(なかんち)に生まれました。ただ男の跡継ぎがいないため、市郎右衛門を婿としました。下写真は、中の家(なかんち)にある「先妣(せんぴ)渋沢氏招魂碑」です。

母・えいは生まれつき慈悲ぶかく、人が困っているのを黙ってみていられませんでした。「中ノ家」の隣に、女のハンセン病患者がいましたが、その女が人に忌み嫌われるのを気の毒がって、よく物を与えました。そのお礼に女がボタ餅などをもってくると、うつるといけないという周囲の声をよそに、えいは平気でそれを食べたといいます。
また、血洗島の隣の下手計村に鹿島神社という神社があり、境内にケヤキの大木があり、太い幹の内部は洞になっていて、その洞には昔から井戸があり、その井戸水で立てた湯は万病に効くといわれていました。そのため境内には共同浴場が設けられ、多くの村人がその霊水を浴びにきました。
その共同浴場を隣のハンセン病の女が利用するときは、他の者はみんな避けていましたが、えいだけが一緒に入浴していたといいます。
このことは、栄一が「雨夜譚会談話筆記」の中で次のように言っています。
「恰度(ちょうど)隣りに癩病(らいびょう)患者の家があつて其患者と云ふのがお母さんに少し年上位の人であつたが、常に労られました。私等は大変厭がつて『情愛としては結構だが、そんなに迄する必要はない』と云つても、お母さんはいとわず着物や食事の世話迄もなさつた。私等が『癩病は伝染する――いや其頃は伝染と云ふ言葉はなかつた。――うつる』と注意するとお母さんは『そんな事はない。お医者に聞いたらうつらぬとの事だつた』と云つて親切に世話なさつて、隣からぼた餅を作つて持つて来ると、それを平気で食べられた。」
栄一の母・えいがハンセン病も怖れなかったということを、私は城山三郎の「雄気堂々」を読んだ時に初めて知りました。
「雄気堂々」の中の栄一と新妻千代の結婚式で母・えいが席を外している事情の説明で次のように書かれています。
「近くの鹿島神社の脇に、願病(らいびよう)を病むりんという名の貧しい中年女が居た。医学知識の進んでいない当時のことである。不治の伝染病だというので、誰もがこわがって避けているのに、渋沢えいだけが、平気で親しくつき合っていた。
市郎右衛門に叱られても、「お医者さまは、うつらぬといいなさった」と、出かけて行く。村人たちは、そうしたえいを、まるで白痴のようだと、あきれて眺め、いまにうつされるぞとうわさし合っていた。」
【1月13日追記】
栄一の母は、栄一が幼い時に、冬には羽織を手にして栄一を追いかたことも知られていますが、そのことについて次のように語っています。(「雨夜譚会談話筆記」より)
お母さんは大変慈愛深い人であつたが、特に私をいつくしみ、寒い時は私の羽織を持つて遊びに出た私を追かけて来られる程であつた。私がそれを厭がつて羽織を地べたに放り出すと『困つた奴だ』とそれでも私を追掛けられました。
母・えいは、栄一の東京の家に滞在していた時、病気となり、明治7年1月7日、栄一の住まいで亡くなりました。そして、夫市郎右衛門の脇に埋葬されました。下写真が母・えいのお墓です。

「雨夜譚(あまよがたり)」岩波文庫P13~14
父の性質はといえば、(中略)方正厳直で、一歩も人に仮すことの嫌な持前で、いかなる些細の事でも、四角四面に物事をする風でありました、また平生多く書物を読んだ人ではなかつたが、四書や五経ぐらいの事は、充分に読めて、傍ら詩を作り俳諧をするといふ風流気もあり、また、方正厳直の気質に似ず、人に対しては、もっとも慈善の徳に富むで居て、人の世話をすることなどは如何にも深切であった、そうしてその平素から自ら奉ずる所はいたって倹約質素で、ただ一意家業に勉励するといふすこぶる堅固な人でありました。

