渋沢栄一が中の家(なかんち)を出たあと、中の家(なかんち)を守ってきた渋沢栄一の一族の人々によって中の家(なかんち)が維持されてきました。それによって、現在の中の家(なかんち)があります。
そこで、今日は中の家(なかんち)を守った人々について紹介します。
今回紹介する人々についての情報は多くはないので苦労しましたが、深谷市のパンフレット「旧渋沢邸『中の家』」、「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一 そしてその一族の人びと」(渋沢華子著)には、結構、書かれていますので、これらを参照にしています。
下写真は中の家(なかんち)の主屋です。左端に栄一の銅像が見えます。なお、今日掲載している写真は、市郎・ていのお墓以外はすべて、昨秋の訪問時のものでなく、数年前のGWに訪問した際のものです。

市郎右衛門・えい夫婦の間には大勢の子供がいました。北区にある渋沢栄一史料館によれば10数人といわれています。
そのなかで成人となったのは3人だけでした。つまり、栄一、姉・なか、妹・てい3人で、男の子は栄一だけでした。そのため、栄一が、高崎城乗っ取り計画を中止し、幕府の追及を逃れるため京都に出奔するとなると、中の家(なかんち)の跡継ぎがいなくなってしまいました。
姉・なかは、近隣の吉岡家に嫁いでいました。そこで、妹・ていが婿をとり、中の家(なかんち)を守りました。
ていが婿をとることは、父市郎右衛門の遺言だったようです。(船戸鏡聖著「たおやかな農婦 渋沢栄一の妻」より)
ていの婿となった市郎は、栄一やていの父親市郎右衛門の妹の次男で、幼いころは才三郎と呼ばれていましたが、渋沢家に入り市郎となのりました。つまり市郎とていは従兄妹どうしです。
この市郎・ていの夫婦が建てたのが現在の中の家(なかんち)です。
ていは、栄一が12歳の時に生れたので、赤ん坊のていをかわいがったそうです。
そんなこともあり、兄妹は年が離れていても大変仲が良く、ていは栄一を尊敬もしていました。また、明るく朗らかでユーモアにあふれる人柄で、栄一が東京で大成功しても、「東京んち」「東京の大将」とも気さくに呼んでいたようです。
ていは明治43年63歳で亡くなり、91歳まで生きた栄一が最も長寿でしたが、栄一が長寿であるのは、兄弟姉妹がすべて病気を引き受けたからだと妹・ていが言っていたという逸話も残されているようです。
「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一」(渋沢華子著)には、日ごろ、『兄さんの代わりに私が病気をすべて引き受けますから』と言ってみんなを笑わせていた」と書かれています。
栄一の日記をみると、明治43年5月3日ていの具合が悪いとの連絡を受け、4日に東京の医師とともに血洗島に見舞いに行っています。そして、5月25日に危篤の報が届き、翌日朝早く王子を出発し血洗島に向かったものの気持ちがしっかりしていたので、一旦帰京しました。しかし、翌日、早朝に危篤との電報があり、8時の汽車で血洗島に向かったもののの既に亡くなった後であったと記録されています。これを見ると栄一がていを大事に思っていたことがよくわかります。
「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一」によれば、ていは、明治43年5月27日、危篤の報を受けた栄一が深谷駅についたころ、「兄さんは」と聞き、駅に着いたころだと知ると「もう間に合わない」と最後に言って亡くなったそうです。
市郎は、勤勉誠実で、栄一が去った後の中の家(なかんち)をよく守りました。
市郎の墓誌は、栄一が書いていますが、その墓誌に中の家(なかんち)を継ぐときに市郎は「弟である私の任務はお兄さんが生まれた家を守って、その名声を墜さないようにすることです。商機に迅速に対応するのは私が得意とするところではありません。ただ、田畑や家を失わず、資産を傾けないようにすることはできると思います。」と栄一に伝え、栄一と相談のうえ、藍玉の製造販売をやめて、農業には一生懸命励んだと刻まれています。
そのうえ、市郎は、周りの人からの信望も厚く、血洗島村が近隣の下手計村や上手計村と合併して八基村となる際には、その合併のために奔走しました。そして、明治32年に八基村2代目村長となり、さらに明治38年に県会議員となりました。
大正6年1月19日、71歳の生涯を閉じています。
市郎とていは、正門南東にある渋沢家の墓所に、並んで眠っています。(下写真)

市郎・ていの長男が元治でした。下写真は、中の家(なかんち)の土間に掲示されていた、元治の写真と親族図です。数年前に訪問した時のものです。昨秋訪問した際には、家の中に入れませんでした。

上京して住んで家は、先日書いたように栄一の次女琴子の嫁ぎ先阪谷家でした。
そこで受検勉強に励み、第一高等学校を経て、東京帝国大学工科大学電気工学科卒業し、民間会社やヨーロッパ留学等で学び、逓信省に入り、その後、大正8年には東京帝国大学教授となり、昭和4年に東京帝国大学工学部長も勤め、昭和14年から昭和21年までの間、初代の名古屋帝国大学総長に就任しました。
元治が家を出たため、中の家(なかんち)は、弟の治太郎が継ぎました。
しかし、治太郎が昭和17年に64歳でなくなったため、晩年は深谷に戻り、中の家(なかんち)を守りながら郷里の教育の振興などに尽くし、昭和50年98歳の天寿を全うしました。
下写真は、元治の揮毫した書で、土間に掲示されていました。これも数年前に訪問した際に撮ったものです。右から「本(もと)立(た)ちて道生ず」と読みます。「論語」學而篇に出ている言葉で「根本が確立すれば、(進めべき)道も明らかになる」という意味です。

市郎・てい夫婦の次男-治太郎
市郎・ていの次男が治太郎です。治太郎は、兄の元治が第一高等学校・東大に進学しその後の活躍も東京中心であったため、元治に代わり市郎夫妻を継いで中の家(なかんち)を守りました。
家業のかたわら、八基村会議員を勤めた後、大正8年には埼玉県会議員を勤め、大正11年には八基村長となり昭和7年まで11年間村の発展に努めました。父の市郎も村長を勤めたので、親子二代の村長ということになります。
そして、昭和17年に64歳亡くなりました。
「渋沢国際学園」理事長-多歌子
元治・孝子の長男亨三は、元治の没後、中の家(なかんち)を社会に役立てることを決めたといいます。亨三の妻多歌子は、亨三の遺志を継ぎ、昭和58 年に外国人留学生の日本語及び日本文化研修施設「学校法人青淵塾渋沢国際学園」を設立し、昭和60 年の開校とともに同学園理事長に就任し、中の家(なかんち)は、渋沢国際学園の学園施設として活用されました。
多歌子は平成元年に亡くなりましたが、その後も、渋沢国際学園は、平成12年に解散するまで継続し、43 か国、679名の留学生が学んだといいます。
渋沢国際学園は、平成12 年に解散し、渋沢国際学園の解散後、中の家(なかんち)は深谷市が所有し管理しています。

