「水藩烈士弔魂(ちょうこん)碑」(渋沢栄一ゆかりの地12)
中の家(なかんち)の前にある駐車場の南東に小さな薬師堂があり、そのお堂の脇に「水藩烈士弔魂(ちょうこん)碑」があります。これは水戸の天狗党に属する浪士2名が葬られた地に栄一撰・書により建立されたものです。なお、「水藩」とは「水戸藩」のことです。
下写真の最も左にある碑が「水藩烈士弔魂碑」です。写真の奥に写っているカーブミラーの後ろが駐車場です。

渋沢栄一は天狗党との関係がかなりありますので、今日は、「水藩烈士弔魂碑」および栄一と天狗党との関連について書いていきます。
天狗党と天狗党の乱
最初に、天狗党とその西上について触れておきます。
天保年間(1830~44)ころから水戸藩改革派の武士を天狗とよぶ風がありましたが、元治元年(1864)3月27日、藤田小四郎をはじめとする尊王攘夷派の藩士ら60人余が尊王攘夷を旗印に筑波山に挙兵し同志を募りました。かれらは天狗党と称されましたが、これに呼応して、郷士、神官、農民ら約1000人がこれに加わりました。天狗党は、日光から下野国太平山(おおひらさん)へと移動した後、筑波山にまた戻りました。
幕府は、これを追討することとし、反天狗党が藩政の実権を握った水戸藩も出兵に応じ、関東諸藩も出兵しました。
天狗党は、水戸や那珂湊で幕府軍や水戸藩と戦いました。しかし、那珂湊の戦いで敗北した天狗党は、北上して大子(だいご)村に集結し、千人余が、途中から天狗党に参加した武田耕雲斎(こううんさい)を大将として、当時京都にいた一橋慶喜を頼って西上することとし、11月1日に行軍を開始します。
天狗党は、下野から上野、そして信濃では中山道に沿って進軍する途中、下仁田では高崎藩兵と戦い、信濃の和田峠では、松本藩・高島藩の藩兵と戦い、それぞれ勝利します。しかし、その他の諸藩は、通り過ぎるのを静観する態度をとったため、戦うことなく美濃まで進みます。しかし、そこより先には大垣藩や彦根藩の大藩が待ち構えていたことから、西に向かわず、北に向きを変えて大雪の蝿帽子峠(はえぼうしとうげ:美濃と越前の国境)を越えて越前に入り新保(しんぼ)まで到着しました。しかし、そこで、頼りとした一橋慶喜が、追討のため、近江の海津(現在の滋賀県高島市マキノ町海津)まで出陣をしているとの報を聞き、ついに加賀藩に投降し、翌年、約350人が斬罪となりました。
これが天狗党の乱と呼ばれる事件です。
「水藩烈士弔魂碑」
「水藩烈士弔魂碑」の撰文と書が栄一によるものです。
この石碑は、元治元年、水戸天狗党が、京都に向かって西上する途中、当地で岡部藩により2名が殺され、その遺骸は無縁塚として葬られていましたが、血洗島の人たちが、大正9年9月に弔魂のために建立したものです。

天狗党は、元治元年11月1日に大子を出発し、下野を通過して、11月11日に上州太田に到着し翌日まで留まりました。そして13日は本庄で宿泊しています。
太田から本庄まで、どのルートを通ったか、未確認ですが、「水藩烈士弔魂碑」には、「十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率いて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり」(碑文の詳細は下記の参考①に書いておきました)と書かれていますので、天狗党は、利根川を越えて、血洗島村の北東部にある利根川に面した中瀬村に着いたものと思われます。
そこで、警備にあたった岡部藩兵により2名の天狗党隊士が殺されたようです。
血洗島の人たちは、その遺骸を埋葬し墓石を建てましたが、隊士の氏名がはっきりしないので、無縁塔とだけとしました。
そして、時代が下り、大正9年、血洗島の人たちが、天狗党の乱の際に殺された二人を悼んで石碑を建てようということになり、栄一が、碑文を考え、それを自らが書いたうえで、建立されたのが「水藩烈士弔魂碑」です。
《1月29日追記》
太田から本庄までのルートを調べてみました。「天狗党事件と高崎藩」(堤克政著、上毛新聞社刊)によると、太田まで進んだ天狗党は、例幣使街道には、伊勢崎藩、前橋藩、高崎藩が待ち構えているので、道を左にとって、世良田村(太田市世良田町)から平塚村(伊勢崎市平塚)に出て、夜間に利根川を船で、対岸の中瀬村(現深谷市中瀬)に渡り、島村(伊勢崎市境島村)を通り本庄に至ったとしています。
また、天狗党の西上を描いた新潮文庫「天狗争乱」(吉村昭著)では、大田宿を出た天狗党は例幣使街道を伊勢崎・川越、高崎等の諸藩がかためているので、間道を西に入り、平塚村(現伊勢崎市平塚)で昼食をとり、岡部藩が利根川渡河を阻止しようとしていたため夜になって行動を開始し、中瀬村に入り休息した後、岡部藩城下に進んだとしています。
さらに、この時に一行に遅れた天狗勢の二人が岡部藩兵に銃殺され、一人がとらわれ斬首されたと書かれています。
「天狗争乱」は、以前、読んだことがありますが、吉村昭の緻密な取材に基づき天狗党の乱を丁寧に描いてあり、素晴らしいものだと思っていていつか、もう一度読んでみたいと思っています。

渋沢栄一は、水戸藩学や天狗党とは、因縁浅からぬものがありますので、どんなことがあるか書いてみます。
①栄一の師である尾高惇忠は、水戸学に大きな影響を受けています。その教えを受けた栄一も、師の影響を受け、尊王攘夷の考えを強く持つようになりました。
そして、高崎城を乗っ取り横浜の外国人を襲撃する計画を立てるまでになりました。
尾高惇忠は、父と一緒に水戸の追鳥狩を見た時、それが勇壮であるのに感心し、それ以来、学風を水戸派のものに変えたと「渋沢栄一伝記資料」第1巻P203に書かれています。
②水戸の天狗党が西上してきたときに、一橋慶喜は、近江国海津まで出陣しました。その時、既に一橋家に仕官していた栄一は、慶喜に従って海津まで出陣しています。
そのことは「水藩烈士弔魂碑」に「回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり」と書いていることから明らかです。
また、「雨夜譚(あまよがたり)」にも詳しく語っています。
その部分は、下記の参考②に載せておきましたので、参考にしてください。
③天狗党のリーダーだった藤田小四郎に栄一は会ったことがあると語っています。
「渋沢栄一伝記資料」第1巻p322に載っている「市河晴子筆記」によれば、栄一が、一橋家の人選御用で関東に下ってきた際に、関戸で藤田小四郎にあったと書いてあります。
※関東で関戸といえば、現在の多摩市の関戸しか思い浮かびませんが、水戸や江戸からは少し遠いと感じています。
また、同じく「渋沢栄一伝記資料」p322に載っている「東湖会講演集」によれば、藤田小四郎に面会したいと希望したけど、既に水戸藩を脱走した後だったので会えなかかった。しかし、それ以前に、文久三年の秋頃、撃剣家の紹介で一度会見し、続いて春日町の割烹店でも会ったと語っています。
「市河晴子筆記」と「東湖会講演集」では話に食い違いがありますが、どちらが真実かは明らかではないと「渋沢栄一伝記資料」第1巻p324の注釈に書かれています。
参考①「水藩烈士弔魂碑」の碑文
此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
大正七年九月 青淵 渋沢栄一 撰并書
参考②「雨夜譚」(岩波文庫)P84~P86
[水戸浪士一件]
この歳十二月の初めに、かの常野脱走の水戸浪士が北国筋から西上するといふ騒ぎで、一橋公には御自身兵隊を引連られて、とりあえずまづ大津駅へ出陣になつたが、追々の注進によつて、浪士どもの挙動もことごとく知れたから、さらに路を湖西に取つて、堅田、今津を経て、海津まで進まれた、この時に喜作は他の御用で中国辺へ旅行して居たように覚えて居るが、自分はこの出兵の御供に加わって、常に黒川に随従して、陣中の秘書記を担任して居ました、全体この水戸浪士が西上する原因といふのは、先程その端緒を述べた通り、藩中党争の破裂から起ったことで、その巨魁の武田耕雲斎・藤田小四郎などいふ人々は、これまで同藩ながら他の党派とは氷炭相容れずといふ勢いで、常に仇敵のやうな有様であった、ところがこの歳の春、武田派の人々に、何か暴激の挙動があったのを口実として、他の一党、即ち書生連の市川派が、頻りに幕府に請願して、これに賊名を負せて追討するという騒ぎになった、武田派の天狗組は、いずれも鎖攘主義の壮士輩が団結したのであるから、自然幕府が近来の措置に心服することが出来ずに、終に筑波大平等の嶮要に立籠つて、数回幕府の討手を悩ましたけれども、つまる処は衆寡敵せず、武田、藤田はその残兵を引率して、路を中山道に取って京都に上り、その党の寃を一橋公に訴えて、正邪曲直の判定を乞ふといふ趣旨であった、ゆえにその表面の挙動はともかくも、その衷情を察して見れば、憐むべき所が少なからんように思われました。
されども幕府は、既にこれを賊として、田沼玄蕃頭の手で追撃の軍兵を差向けたから、沿道の諸藩においても、皆兵隊を繰り出して、これを防止するという現状になった、それゆえ一橋公も傍観することは出来ぬ、やむをえず朝廷へ御願いの上、自から軍兵を総督して、御出馬になったので、その先鋒の大将には、その頃京都に滞在中の水戸の民部公子が向われた、全体この御出馬は、浪士の来路を偵察して置いて、途中でこれを鎮圧してしまって、決して禁闕の下を騒擾させないといふ神算であった、ところが公が海津まで進まれた日に、浪士どもは越前の今庄で、加賀の隊長永原甚七郎という人の手へ降服の事を申入れた、永原は早速その処置を一橋公へ伺ひ出たによって、公はその降人の兵器を取上げ加賀藩においてこれを警固して、不日さらに田沼玄蕃頭の手へ引渡すべき旨を命ぜられてまづその一段落が付いたから、十二月の末に京都へ御帰陣になりました。
さて田沼玄蕃頭は、降服の浪士を加州藩から受取ったが、篤とその邪正曲直を審判するでもなく、一概に賊徒といふ罪名を以て、巨魁の武田藤田は勿論、総計百三十人余りの同勢を敦賀港において、ことごとく斬罪に処してしまったが、その時わずかに死を免れて放逐されたものは人夫体の卑賤なものばかりであったとの事だが、ずいぶん酸鼻な話ではありませんか。その跡で京都の有志家中には、一橋公として水戸浪士が軍門に降服したのを直に幕府へ引渡すというは、幕府を畏敬するに過ぎて人情を酌量せぬ処置であるといふ評論もあった趣だが、これはただその難きを公にせしむるというものであろうと考えます。

