尾高惇忠の生涯・墓(渋沢栄一ゆかりの地16)
今日は、尾高惇忠の生涯、そしてそのお墓のご案内をします。
尾高惇忠は、下手計村の尾高勝五郎の長男として生まれました。通称は新五郎で、諱(いみな)が惇忠です。なお以前書いているように惇忠の読みは訓読みで「あつただ」で、音読みで「じゅんちゅう」ですが、地元では「じゅんちゅう」とよばれています。大河ドラマ「青天を衝け」でも「じゅんちゅう」と呼んでいます。号を藍香(らんこう)と言いました。下写真が尾高惇忠です。生家の座敷に掲示されていたものです。
尾高惇忠は学問に優れており、17 歳の頃、自宅で尾高塾を開き、近隣の子どもたちに学問を教えました。渋沢栄一も尾高惇忠から学問を学び大きな影響を受けています。
尾高惇忠は、数え年12歳の時(天保12年)、父と水戸藩の追鳥狩を見たことから水戸学に感化され、尊王攘夷思想を持つようになりました。そのため、前回書いたように、攘夷運動の高まる世相の中で、文久3年(1863)、渋沢栄一や渋沢喜作と高崎城乗っ取り、横浜の外国人を襲撃する計画を企てましたが、弟尾高長七郎の反対で計画を中止しました。(この計画中止の協議の様子は前回書きました。)計画を中止した後、渋沢栄一と喜作は京都に出奔しましたが、尾高惇忠は、血洗島に残りました。
元治元年(1864)6月には、水戸の天狗党との関係を疑われ、岡部藩の岡部陣屋の牢獄に入牢されています。
渋沢栄一がパリに渡航している間、徳川慶喜が大政奉還し鳥羽伏見の戦いで敗北し江戸に帰り謹慎している中で、渋沢喜作が彰義隊を結成すると、彰義隊に参加し参謀となりました。そして、渋沢喜作が彰義隊を脱退し振武軍を結成すると喜作と行動を共にします。しかし、振武軍は飯能戦争で敗北し、喜作と惇忠は群馬県の伊香保・草津方面まで逃れました。その後、喜作は江戸に出て函館まで転戦しますが、惇忠は、郷里の手計村に戻りました。
その後、明治2 年(1869)12 月の「備前渠(びぜんきょ)取入口」事件では地元農民の先頭に立ち、同志とともに民部省に提訴し、この事件を解決しました。
これが縁で民部省の要職である民部大丞の玉乃世履(たまのせいり)に見出され、民部省に招かれました。(※玉乃世履は、岩国藩士出身で、玉乃家の養子となり玉乃姓を名乗るようになりました。明治11年には初代大審院長となりました。)
その頃、渋沢栄一は、官営製糸場の設立にかかわっていましたが、尾高惇忠も計画当初から関わり、官営製糸場の設置場所探しを行い、富岡に設置することを決定し、富岡製糸場の初代場長も務めました。
富岡製糸場の建設にあたっては、当時の日本ではほとんど知られていなかった煉瓦やモルタルといった資材の調達に地元深谷のネットワークを活用し尽力しました。
しかし、伝習工女の募集は「フランス人が工女の生き血を採って飲む」との噂が流れたために難航しました。そこで、尾高惇忠は自らの長女のゆうを下手計村から招き寄せました。このゆうの勇気と惇忠の誠実な呼びかけにより、工女も集めることができました。下写真はゆうの写真です。尾高惇忠生家の説明板の写真を撮影したものです。
明治9年に富岡製糸場の場長を退任し、その後、渋沢栄一の関係していた民間企業に積極的に協力していきます。
栄一は、明治6年に大蔵省を退官し、第一国立銀行総監役となっていましたが、惇忠も、明治10 年(1877)には第一国立銀行の岩手県盛岡支店の支配人となり、盛岡で10 年勤務しました。この間、東北の地でも多くの業績を残しています。明治14年に設立されている盛岡商工会議所の前身にあたる盛岡商法会議所設立もその一つで、初代所長を勤めています。
その後、明治20年に第一国立銀行の仙台支店長に転任し、明治25年に63歳で第一国立銀行を退職しました。
明治34年1月2日、東京深川福住の渋沢栄一の屋敷の別邸で病気のため亡くなり、亡骸は、故郷血洗島に戻り、現在は、尾高家の墓所に埋葬されています。下写真が尾高家墓所の入り口です。
尾高家の墓所は、尾高惇忠生家の前の道を東に向かい、下手計の交差点をそのまま東に進むと100m余りで清水川という小川を越えますが、その清水川の手前の車一台ぐらいが通れる狭い道路を100mほど北に向かうと尾高家墓所は道路の西側にあります。表示板や道案内などは一切ありませんので探すのに苦労しました。
尾高惇忠の墓碑は、西を向いて建立されています。墓碑の表面mには法名「藍香院惇徳格知居士」と刻まれています。墓碑の三面には、栄一による碑文がびっしりと刻まれています。下写真が尾高惇忠のお墓です。
尾高家の墓所には、尾高長七郎の墓もあります。尾高長七郎は、明治元年(1868)11月18日に病没しました。
尾高長七郎の墓碑は、尾高惇忠の墓に向かいあった墓列の最奥にあります。東寧尾高弘忠之墓と刻まれています。弘忠は尾高長七郎の諱(いみな)です。
この墓は、渋沢栄一が建立したものです。右側面に「尾高勝五郎第二子明治元戊辰十一月十八日歿享年三十又一」左側面「渋沢栄一建石」と刻まれています。
渋沢栄一は、尾高惇忠と長七郎から大きな影響を受けています。「渋沢栄一伝稿本」には、「而して先生をして更に憂国の志士たらしめしものは、尾高藍香と尾高長七郎となりき」と書かれ、さらに、「二十才前後に及びては純然たる尊王攘夷論者となり」と書かれています。
※「備前渠(びぜんきょ)取入口事件」とは、明治政府が備前渠用水路の取入口の変更計画を行ったことに対して、地元では水路の変更することによって、洪水や地域の水不足で作物が育たなくなることを訴えた事件です。
備前渠用水路は、慶長9年(1604)に関東郡代伊奈忠次が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古級の用水路です。忠次は備前守を名乗っていたため、備前渠という名がつけられ、地元では「備前堀」と愛称されています。
備前渠用水路は現在も利用されています。その途中にかかる備前渠鉄橋は、国の重要文化財に登録されています。(下写真)
備前渠鉄橋は、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦工場と深谷駅をつなぐ引込線が備前渠用水路を渡るために架けられた鉄橋です。