渋沢栄一と徳川慶喜の最初の出会い(「青天を衝け」2)
大河ドラマ「青天を衝け」がいよいよ始まりました。
徳川家康が日本の歴史を語るナレーターとして登場したのには驚きましたが、「青天を衝け」本編の冒頭のシーンは、渋沢栄一と徳川慶喜の初めての出会いの場面でした。(下の渋沢栄一の写真は深谷市所蔵です。)
脚本を担当する大森美香さんは、「ドラマの前半は、栄一の物語と徳川慶喜の物語、2つの軸で描いていきます」と言っていますが、まさのその通りの冒頭シーンでした。
この出会いのシーンは、あまりもの劇的な場面ですので、ドラマの脚色だろうと感じた方も多かっただろうと思います。
しかし、二人の最初の出会いは、「蒼天を衝け」で描かれたような出会いでした。つまり史実です。
栄一と慶喜の最初の出会いについて、栄一が自叙伝「雨夜譚」の中で詳しく語っています。
詳細は、岩波文庫「雨夜譚」P58~65に書いてありますが、概略を書いていきます。
栄一は、高崎城乗っ取り計画が尾高長七郎の反対で中止された後、幕府の追及を逃れるため、伊勢参りを口実に血洗島を離れます。
京都では、伊勢参りなどで時間を費やしますが、 しばらくして平岡円四郎から呼び出しがかかります。
平岡円四郎からは二人の身辺事情について尋ねられます。当時、二人にはヤバい事情がありましたので、それを素直に説明しました。円四郎は、それを了解した上で一橋家への仕官を勧めました。
そこで、栄一と喜作は、一晩どうするか議論をして考えた末に一橋家に仕官することにしました。
しかし、「ただ困ったから仕官させてくださいというは残念だから、一つ理窟をつけて志願しやうじやないか」ということになり、翌日、平岡円四郎に、「二人の意見を建言した上で、お召抱えということにしていただきたい」と申し出ました。平岡円四郎から「何なりとも意見書を出すがよい」といわれたので、あらかじめ準備していた意見書を平岡円四郎に渡しました。平岡円四郎はその書付を一読して、「これを慶喜公に御覧に入れよう」といいました。
ここまで、進んだうえで、さらに二人は平岡円四郎に対して、「一度慶喜公に拝謁をおおせつけられて、たとえ丁寧な御意がなくとも一言直接に申し上げた後にお召抱えを願いたい」とお願いしました。
それに対して、平岡円四郎は、最初「否、それは例がないからむずかしい」といいましたが、最後には「ともかく評議をしてみよう」ということになりました。
そして、一日・二日たつと、平岡円四郎は、「拝謁の工夫がついたが、見ず知らずの者に拝謁を許す訳にはいかないから、一度遠くからご覧になって、渋沢栄一をみていただく工夫をしなければならない。二・三日中に郊外の松ヶ崎へ遠乗りがあるから、その道筋にいて御見掛けになるようにするがよい。けれどもそれには慶喜公は乗馬だから、走らなければならぬ」ということでした。
「その当日は一橋慶喜公の御馬が見えると、すぐに下加茂辺から山鼻まで、行程十町余りのところを一生懸命にひたばしりに駈けて御供をしたことでした。」と「雨夜譚」の中で語っています。
また、栄一は、太っていて背も低いことから駆けるのは苦手であったので大変困ったとも語っています。
「雨夜譚」には、「その後一両日たって、内御目見を仰せ付けられたから、その時には前の建言の趣意を以て、無遠慮にお話し申上げた。」と書いていますので、後日に、もう一度慶喜に拝謁して二人の思うところを申し上げたうえで、栄一と喜作は、一橋家に仕官したようです。
ここも「青天を衝け」に描かれていました。
武蔵国の百姓が一橋家に仕官をするにあたって、事前にお目見えをお願いするなんて異例のことだと思います。現在でも入社する前に社長に合わせてくれというのはなかなか大変です。それを江戸時代に要求するのですから、渋沢栄一は尋常ではなかったと思います。
しかし、そんな尋常でない要求に平岡円四郎が応えたのは、それだけ高く渋沢栄一を評価していたからだと私は思います。栄一の要求に応えた平岡円四郎も一角の人物だと思います。
【3月22日追記】
3月21日放映された「青天を衝け」第6回で、渋沢栄一と徳川慶喜が、一緒に並んで小用を足すシーンがありましたが、あのシーンは創作だと思っています。
栄一は、父からに商売に出ろと言われていました。中の家(なかんち)の取引先は、信州や上州、秩父が中心で、江戸方面には取引先はありませんでした。ですから、商売の旅先といえば、武蔵国北部、上州、信州ということになります。
一方、徳川慶喜の屋敷は、江戸にあります。馬に乗って走らせたとしても、武蔵国北部まで、たやすくたどり着ける距離ではありません。
以上から、栄一と慶喜が、めぐり合う機会はないと考えています。